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2007年03月26日

偉大な建築家ブルーノ・タウト_3

そもそも第一次世界大戦で敗戦した後のドイツ経済は散々なものでありました。戦勝国から膨大な賠償金を突きつけられ、労働者は働けど働けど常に貧乏のどん底にいました。常識を超えたインフレーションに財閥は富を得たものの、労働者階級の生活はどうにもならないものがありました。このような背景があり、ナチスが国民の支持を得て台頭し、再びドイツを破局に追いやるのであります。
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図1 チレによるベルリンの貧乏長屋のスケッチ:「お母さん、フリッツのおしめがびしょ濡れだよ!」母親は「陽の当たる所においときな!」と答えている。

当時のベルリン在住の労働者階級をスケッチに残した画家にハインリッヒ・チレ(Heirich Zille:1858年-1929年)がいます。チレは常に労働者の側に立ってスケッチを行いました。このスケッチを見ると当時の労働者のベルリンにおける生活が理解できます。わが国においても少子化が問題になっていますが、ドイツの方が早い時期に少子化時代に入っていったのです。現在のベルリンは極めて子供の数が少ないのですが、ブルーノ・タウトがそしてハインリッヒ・チレが活躍した時代の労働者階級は極めて子沢山でありました。子供が保険代わりであったのか、当時の幼児の死亡率が高く多く子供を生まないと子供に将来を託せなかったのか?

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図2 チレのスケッチ:「あんたの鼠、どうして死んだの?」「おれんちとても湿ってんだ」鼠が死ぬほどの住環境の悪さが想像されます


図 1は赤ん坊のお守りを頼まれた女の子が「お母さん、フリッツのおしめがびしょ濡れだよ!」と叫んでいます。窓から顔を出した母親は「日の当たる所に置いときな!」と答えています。図 2は鼠の死骸を玩具にしている男の子に女の子が聞いています「どうしてあんたの鼠は死んだの?」「おれんちとても湿っているんだ」当事の住宅の劣悪な室内環境が想像されます。図3は「最貧乏人の引越し」という題です。失職し病を得た男が家賃の滞納からか家を追い出されたのでしょう。でも子供の顔には笑顔が見られます。


親の顔は貧乏に耐えかねた表情ですが、子供の顔はどれも明るく笑顔には将来の希望を感じる救いがあります。これがドイツ人の伝統精神かとも考えられます。ドイツの神様には「神々の黄昏」でご存知のように滅亡があります。しかしその滅亡からまた這い上がってきます。その力強さには感心します。

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図3 チレのスケッチ:最貧乏人の引っ越し

第一次世界大戦の敗北、そして復興、第二次世界大戦での敗北、そして脅威の復興。ブルーノ・タウトが活躍した時代は第一次世界大戦での敗北からの復興期でした。労働者に健康的な住宅を供給する事が氏の使命であったのでしょう。奇跡の経済復興をなしとげたドイツは豪華な住宅も多くなっています。タウトの作品はその中に埋没し、必ずしも存在感がありませんがこの住宅が建てられた1920年代という時代を考えるとタウトの努力に敬意を払わざるを得ません。
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2007年03月19日

偉大な建築家ブルーノ・タウト_2

ブルーノ・タウトがベルリンの西郊オンケル・トムズ・ヒュッテ(Onkel Toms Hütte)に造った森の団地ヴァルドジードルング・オンケル・トムズ・ヒュッテ(Waldsiedlung Onkel Toms Hütte)も規模が大きく1926年から1931年の間に完成しています。1952戸ありますが、ここには486戸の独立住宅もしくは2軒の家族を1棟とした住宅も含まれています。

森の団地オンケルトムズヒュッテの集合住宅

リューデスハイムプラッツ(Rüdesheimerplatz:1912年)、ジードルング・アイヒカンプ(Siedlung Eichkamp:1925年-1927年)、トリア通りの住宅(Wohnanlage Trier Straße:1925年-1926年)、ヴァインガンドウーファーの住宅(Wohnanlage Weingandufer:1925年-1926年)、シェラー公園の住宅(Siedlung Schlerpark:1924年-1930年)、フライエ・ショッレ・トレビンの住宅団地トレッビンのフライエ・ショッレ(Siedlung Freie Scholle in Trebbin:1924年-1926年)、ガルテンシュタットの住宅(Gartenstadt Falkenberg:1913年-1916年)などの現存している団地であります。


森の団地オンケルトムズヒュッテの集合住宅

「ブルーノ・タウトは住宅をたくさん造ったが住宅とは同じ事の繰り返しで、建築家としては大したことはない」という評論家もいますが、オンケルトムズヒュッテの団地にも大きな顕彰碑が建っています。リッツの馬蹄形住宅の場合もそうでしたが、住人に顕彰碑を建ててもらった建築家は他にはいないのでないでしょうか?住宅が疲弊してしまった第一次世界大戦の後に労働者住宅の復興を一生懸命に行ったブルーノ・タウトは大変な偉人でした。しかもマークドブルグ時代は印象派の建築家として売り出し、ベルリンの住宅局に移るや、社会主義派の建築家に転身、日本に移ると設計はほとんど行わず、「日本美の再発見」など桂離宮をはじめ日本文化を世界に紹介する文筆業に徹するなど自分の置かれた境遇で精一杯の仕事をした方といえるでしょう。


オンケルトムズヒュッテにあるブルーノ・タウトの顕彰碑(1933年に日本に渡ったと記されています)
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2007年03月12日

偉大な建築家ブルーノ・タウト_1

建築家ブルーノ・タウト(1880年-1938年)は1913年ライプチヒ(Leipzig)の国際建築博覧会に「鉄の記念塔」を出品、さらに1914年ドイツ工作連盟展に「ガラスの家」を発表し一躍表現主義の建築家として名声を得ました。
1914年第一次世界大戦の勃発により建築家活動が不可能になり、1920年にはマグデブルグ市(Magdeburg)の土木建築課長になり、戦後の復興に努めました。当時から建物に着色することに傾注しました。1924年44歳の時にベルリンの住宅供給公社ゲハーク(GEHAG)の主任建築家に就任し、当時ベルリンに地方から職を求めて人口の大量流入があったのに対応して労働者の住宅団地造りに努力しました。


「この地域の集合住宅はベルリン市住宅局GEHAGにより建設された」とあります。

ちなみに「近代建築の曙」と言われるペーター・ベーレンス(Peter Behrens:1868年-1940年)によるAEGタービン工場は1909年に建設されました。第一次大戦後大都会には大工場が建ち職場があったので、地方から労働者が流入しました。当時の工場は人海戦術に頼るものですから多くの労働者を必要としました。


ペーターベ−レンス設計によるAEGタービン工場(1909年竣工):ベルリン市モアビット

タウトは1933年までに12,000戸の勤労者住宅を建設しています。氏はこれをジードルング(Siedlung:団地)と呼んでいます。太陽を取り込み、ヴィーゼ(Wiese)と呼ぶ芝生のある庭を設け、当時から自動車の普及を考慮し、駐車場を設けるなどの配慮をしています。団地であるだけに同じ住居を繰り返して建設している例が多いのです。1925年にベルリンの南部のブリッツ(Britz)に平面的に見ると馬蹄形に見える団地を造っています。馬蹄をドイツ語でフーフアイゼン(Hufeisen)と呼びますが、フーフアイゼンジードルング・ブリッツ(Hufeisensiedlung Britz)として有名です。完成は1930年で1963戸です。


「ベルリン市リッツの馬蹄形住宅」空から撮影しないと馬蹄形であることは分からない」


ブルーノ・タウトのリッツの住宅団地に建てられた顕彰碑
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2007年03月05日

黒い森シュバルツヴァルト

南ドイツにある黒い森シュバルツヴァルトが一時酸性雨で枯れていくというニュースが流れた。しかし幸いにこの問題も改善方向に進んでいる。ドイツでの環境保護と森を大切にする運動による成果である。このシュウバルツヴァルトの北の一角、バーデン・バーデンは欧州きっての高級保養地でフロンテイ―ヌ丘陵から湧き出すミネラルを含有する温泉を求めて常に金持ちの観光客で賑わっている。クアハウスという建物があるが、療養客の為の社交用施設であろう、中にはカジノ、高級レストラン、コンサートホールがある。カジノはドイツで一番規模が大きく、中は宮殿のような作りである。建物も19世紀のものである。町には噴水や池も多く、この町が戦災を免れたのも、米軍がドイツ占領後バーデン・バーデンでの居住を望んだからである。

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ドイツでは林業に携わる人もメルセデス・ベンツで山に入ってくる。

この町にしばしば出張するのは何もカジノに遊ぶ為ではない。国際会議もよく開催されるし、外断熱の協会がこの町にあるからである。よくこの協会を訪問する。2006年に訪問した際に午後時間が余ってしまった。この町で、シュバルツヴァルトの森を散策し、森の保護をする団体があるという事を外断熱協会で知った。早速その仲間に入れていただき、シュバルツヴァルトの一角を散策した。多くは仕事をリタイアした初老の方々であったが、皆さん元気に歩き、害虫のついた木はないか、森林にゴミが捨てられていないかなどを観察して歩いた。

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バーデン・バーデンの森の散策


ドイツ語での木の名前も専門家から教わった。石の上に生えているような条件の悪い木もあった。4時間ほど森林を歩き、夕方バーデン・バーデンの町に戻り、皆さんとビールを飲んだが、適当な疲労の後のドイツビールの味は忘れられない。

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山歩きの後のビールは格別
posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 街並み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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