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2007年04月30日

復活祭

キリスト教会で、イエスの復活(処刑後3日目に蘇る)を記念して春分後の満月直後の日曜日に行う祭事で、イースターと呼びます。ドイツ語ではオステルン(Ostern)になり、国民の祝祭日となり多くの人は1週間ほど休暇をとります。

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今の西洋暦では毎年何月何日と決めるわけにもいかず、毎年かなりのずれがあります。キリスト教国でないところでは何時が復活祭なのかも不明で、この時期に商用で欧州を訪ねようとすると先方は休暇中で商用が出来ないということもあります。毎年復活祭付近に行っている見本市も復活祭をはずして開催されるので、これも日程がわからなくなります。

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復活祭ではゲルマンの古代からの風習であるとされているが卵を飾ります。また大きめなチョコレートで作った卵があり、これを庭の樹木の下に隠し、子供が探すという子供の喜びもあります。また復活祭には何故かウサギがつき物であります。うさぎがイースターの卵を持ってきて木の根本に隠すと伝えられています。各商店や家庭ではウサギを飾ります。

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ロシア帝国の最後の皇帝ニコライ2世が、皇后への贈り物として、宝石の細工師ファベルジェに作らせたものは宝石、金銀をちりばめ、「インペリアル・イースターエッグ」と呼ばれ最も高価なものは11億円もの値段が付いたそうです。卵は新しい生命の誕生を意味しますし、ウサギは多産であることから「豊穣、子孫繁栄」を意味するそうです。ちなみにプレイボーイ誌がウサギをシンボルとしているのもウサギが多産であることから「セクシー」を意味する事によるそうです。

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キリスト教の暦を知らない我々にとっては少々迷惑な復活祭の休暇でありますが、復活祭が過ぎると長かった冬も終わり、花々が一斉に咲き春がやってきます。ちなみに2007年の復活祭は4月8日でした。
日本の正月休みは欧州のクリスマス休暇に、5月の連休はイースター休暇に相当し、纏めた休みが取れこの日が来ることを楽しみにしています。


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2007年04月23日

ベルリン市ハンザフィアテルの住宅

ベルリンティアガルテンにあるハンザフィアテルの共同住宅は1950年代に敗戦ですっかり遅れたドイツの建設の技術を取り戻そうと世界から有名建築家を集めて新しい技術で集合住宅を建設したところです。鬱蒼とした森の中に多くの集合住宅が点在し、最初にベルリンを訪問した1965年には日本の住宅と比較し、これが本当に敗戦国の住宅かと驚いたものでした。戦後の復興を住宅から始めたドイツと産業の復興を優先させた日本の違いを感じました。

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1957年建設。グロピウスの作品

このハンザフィアテル地区はすでに1872年に私企業の不動産会社がこの森と芝生の土地に開発を始め1876年に住宅を建設し、この地区をハンザフィアテルと呼ぶようになりました。電車もこの地区に入ってくるようになり、1882年にベレビューという駅ができ、医者、弁護士、企業経営者と言った富裕層が住んだそうで、343棟の集合住宅に15000人の人口がありました。しかし1943年11月の空襲で75%の住宅が壊滅状態になり1945年にとどめの空襲を受けました。戦禍で瓦礫の山となったハンザ地区を婦人達が手渡しで瓦礫を運び整備した話は有名であります。戦時中にナチスに加担しなかったグロピウスが中心となって再建の委員会を作り、国際コンペの形で近代的な集合住宅(一部独立住宅も存在する)が建設されました。

このコンペをインターバオと呼んでいます。各集合住宅から暖房用の煙などが出ないように当時既に地域暖房も行なわれました。ル・コルビジェ、オスカ・ニーマイヤー、マックス・タウト(ブルーノ・タウトの実弟)、アルネ・ヤコブセン、アルバー・アールトー、ハンス・シャロン、カイ・フィスカー、ヴァルター・グロピウスなど錚々たるメンバーが参加をし、腕を競いました。

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1957年建設。オランダの建築家ブレックとバケマの設計

1ヘクタールに1000人の収容と言う事で、十分な空地が取られました。ミース・ファン・デル・ローエやサーリネンのような一部有名建築家で参加を拒否した方もおられたそうであります。夏に来ると緑が繁り緑の影となって住宅が写りにくくなります。

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1957年建設のオスカ・ニーマイヤーの作品

ここでは2007年3月に訪独した際に撮影した写真を示します。1950年代に建設された集合住宅ではありますが、現在も良い状態で保存されています。但し現在の断熱条令に適合しないので、外断熱改修が行なわれていたり、アスベストを含む建材で作られたエタニットハウス等の改修が行なわれていました。ハンザフィアテル地区は現在でも建築を学ぶものにとって素晴らしい博物館と言って良いでしょう。

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バウムガルテンの作品。エタニットハウスと呼ばれています。アスベスト建材を使用したことで、改修が行なわれました。
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2007年04月16日

テンペルホーフ飛行場

ナチス政権の時代にテンペルホーフ飛行場がベルリンの街中に出来ました。この地区は戦後米国の占領下に入り、国内への飛行機は主にここから飛びました。東西ベルリンの間にベルリンの壁が構築されるや、東ベルリンのシェーネフェルド飛行場を東ベルリンとソ連の航空会社が使用し、西ベルリンのテンペルホーフ飛行場は米国のパンアメリカン、英国のBA、フランスのエアフランスがドイツ国内と西ベルリン各地を結んで、飛行しました。ドイツの航空会社ルフトハンザは飛行を許されていなかったのです。

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「冷戦時代に西ドイツ、西ベルリン間を結んだプロペラ航空機が閉鎖されるテンペルホーフ空港に飾られている」

冷戦が進むとソ連は1948年にベルリンの封鎖を行ないました。すなわちベルリンと旧西ドイツとの間の鉄道、高速道路を事実上閉鎖され、当時200万人いた西ドイツ市民は食糧危機に見舞われました。そこでこれに対抗し、西側は空輸作戦を行い、ドイツ各地から西ベルリンに物資を輸送しました。この拠点となったのがテンペルホーフ飛行場であした。1971〜1973年のベルリン工科大学留学中もよくテンペルホーフ飛行場を使用し、西ドイツ各地に飛んだことがありました。当時はプロペラ機が中心でしたが、飛行場の大きく張り出した屋根の下に機体が入ってきて乗客は雨の際にも濡れることなく乗降ができるようになっていました。

よくテンペルホーフから西ドイツ各地へ飛行機で旅行したのは、当時の西ドイツ政府が航空運賃の半額を補助したのです。そうしないと西ベルリンの人口が自然に減少し、西側が西ベルリンを放棄することにもなりかねなかったからです。当時を記念し西ベルリンと西ドイツを結んだ物資の空輸作戦を「空の橋」“ルフトブリュッケ”と呼び記念碑が飛行場の前に立っています。

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冷戦時代米軍が西ドイツと西ベルリン間で行なった大空輸作戦「空の橋」を記念して空港に残る記念碑

この飛行場も現在はベルリンとマインツ、ザールブリッケンを定期航空便が飛んでいるほかは僅かなチャーター機が飛んでいるに過ぎません。街中にあるので、騒音問題から夜間の離着陸が出来ない、維持費がかかりすぎるなどの理由で、2008年10月までに閉鎖されることが決まりました。これで冷戦の生き証人も静かに消え去っていくのでしょう。1971〜1973年ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所の客員研究員としてベルリン滞在中に日本から多くの方が私を訪ねて下さった。そしていつも迎えにいったのがこのテンペルホーフ飛行場でありました。そしてこの飛行場は多くの乗客で常に賑わっていました。人の殆んどいなくなった飛行場に入ると、冷戦のさなかにベルリンで生活をした者にとって、何とも言えない寂しさを感じるものであります。

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「冷戦時代は常時多くの乗降客で賑わったテンペルホーフ飛行場も閉鎖を前に閑散としている」

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2007年04月09日

防空壕の住宅

ベルリンの下町コロイツベルク地区に巨大な円形の防空壕後がある。直径56メートル、高さ21メートルの堅固な石造である。これは1877年に作られた街灯用のガスタンクであった。危険物を貯蔵するために非常に頑丈な構造で作ってあったので、第二次世界大戦が始まると6000名の市民を収容できる防空壕として改造された。

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「防空壕が住宅に!」

昔ベルリンの大日本帝国大使館の地下にあった防空壕を見学した事があったが、それは立派なものであった。私も日本で戦時か「空襲警報発令」の合図のもと防空壕に入ったし「敵機来襲」の合図に息を殺して防空壕で寒さに耐え凌いでいたことがあるが、このような粗末な防空壕とは作りが違っていた。実際にベルリン空襲の際にはこの防空壕に3万人に人間が押しかけたと言う。

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「防空壕住宅近くの集合住宅:戦前のもので、奇跡的に戦災を免れた」

戦後は老人ホームとして、また住宅困窮者収容施設として使用されたが、2006年9月に開発業者がこの遺跡を取得。外観を生かし、内部を12戸の住宅とすることを発表した。2008年に完成予定との事だが、歴史的な遺物を残し、住宅化する計画は歓迎されそうだが、近隣住宅からは「駐車場をどうする」「この地区に住宅は不要」といったシートがかけられ、反対運動が行なわれていた。

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「防空壕の上の住宅建設反対!」の幕を掲げる住宅も

訪問した3月4日、日曜日ではあったがこの巨大な建造物に建設業者が立ち入り屋上緑化の計画を練っていた。建造物に隣接する運動場では子供たちがサッカーの練習を行なっていたが、かつてドイツでは日曜日に仕事をする習慣はなかった。マルチン・ルッターの十戒の第3の戒めで「安息日をおぼえて、これを聖とせよ」というものがある。ドイツ留学中に土曜日に車を洗浄していたら道行く人に「フライシッヒ!勤勉な方よ」と褒められたのに。日曜日に同じ場所で車を洗浄していたら非難の口笛を吹かれるということもあったのである。かつてドイツでは日曜日は商店街は全て店を閉めたが、最近ではそうでもない。これも経済のグローバル化によるものであろうか?ポスト産業資本主義に入っている事の現われかもしれない。
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2007年04月02日

偉大な建築家ブルーノ・タウト_4

ベルリン出張のたびに、時間を見つけブルーノ・タウトの作品を見てきました。タウトは1913年に発表した「鉄のモニュメント」、1914年に発表した「ガラスの家」で表現主義の建築家として有名になりました。そして1924年4月にベルリン市住宅局の技師になるや、労働者住宅の建設に傾注します。この間技量を認められ、1930年にはシャロッテンブルグ工科大学(現ベルリン工科大学)の教授になり住居学の講座を持ちます。

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洗心亭

1932年にはモスクワで仕事を行うなど社会派建築家の色彩を強め、当時台頭してきたナチス政権に睨まれ、かねてから憧れていた日本へ1933年5月に亡命します。ドイツで名声のあった建築家であったので、日本で大学教授などの職が得られるかと期待していましたが、日本もナチス政権と結んでいたため、良い職は得られませんでした。それどころか、建築設計の仕事にも授かれず、日本滞在中に行った設計は熱海市に現存する日向別邸(1936年、延べ床面積213m2)のみであります。数奇屋と表現主義の融合が見られます。この建築も老朽化しわが畏友稲葉和也(建築史家)らにより保存運動が行われています。

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タウトの住んだ少林山達磨寺:開運の達磨で有名。タウト著「Das japansche Haus und sein Leben(日本の住宅と生活:1936年)」にもこの写真とほぼ同じ達磨が紹介されています。

日本亡命後初めは仙台で工芸の指導を行いますが、高崎市の実業家井上房一郎氏の知遇を得て、群馬県工業試験場、高崎分場の嘱託となります。そして同伴者エリカと共に高崎市少林山達磨寺の境内にある洗心亭で昭和9年(1934年)9月8日から離日の昭和11年10月までの2年3ケ月をここで過ごしました。

先日洗心亭を訪問しました。タウトがベルリンで住宅に困窮する労働者のために建設をした住宅より、余程狭い6畳、4畳半、二間のこじんまりした木造平屋の建物で、少林山達磨寺の東隅に建っていました。タウトは建築設計の活動が出来ないと知るや、ここ洗心亭を拠点とし、日本文化の研究を行い、「日本文化私観」「日本美の再発見」「日本住宅と生活」など著書を残しました。そして桂離宮、伊勢神宮、飛騨の合掌造りを世界に紹介しました。

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「われ日本文化を愛す」ブルーノ・タウト筆による石碑:洗心亭の近く

逆境に打ち勝ち、表現主義の建築家から社会派建築家そして日本文化の再発見へと転進をはかり、それぞれの境遇で全力投球を行ったタウトは尊敬すべき人物であります。洗心亭のそばに「われ日本文化を愛す」という自筆の石碑が建っています。

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筆者と石碑
posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 建築家ブルーノ・タウト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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