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2007年05月28日

メンデルゾーン(Erich Mendelsohn)

エーリッヒ・メンデルゾーン(1887〜1953)はブルーノ・タウトと同様にドイツのケーニクスべルク出身である。アール・ヌーボー(ドイツではユーゲンド・シュテ−ルと呼ぶ)を引き継ぎ彫刻性に富んだ表現主義の建築を設計した。

特にポツダムに作ったアインシュタイン塔と呼ぶ気象観測の建物は有名である。これは戦火により破壊されたものの、旧来通りに再建されている。

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ポツダムに建つアインシュタイン塔、メンデルゾーン設計

アインシュタイン塔の断面図を入手することができたので、ここに公開する。

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メンデルゾーン設計のアインシュタイン塔断面図


ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所で客員研究員をしていた際の友人アクセル・ヤーン(Dr. Axel Jahn)の蔵書Walter Müller Wuckow著 “Architektur der Zwnziger Jahre in Deutschland“ より引用を行った。また1926〜1928年にベルリンのレーニナー広場に建設されたウファー(UFA)映画館、キャバレー、そして集合住宅の建設ブロックは改築されたものの現存している。

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「ベルリンのUFA映画館、メデルゾーン設計」ユーゲントシュティ−ル

メンデルゾーンはユダヤ系であったために1933年に英国に亡命、さらに41年にはサンフランシスコに移住し、そこで市民権を得た。音楽家のメンデルスゾーン(Mendelssohn)もユダヤ系ドイツ人であったが、建築家とは姓のスペルが異なる。ハインリッヒハイネ(1797〜1856)もユダヤ系であったが当時はユダヤ人とドイツ人がうまく融合していた時代であった。ドイツがユダヤを排斥するようになってから突出する優秀な人物がドイツから排出しにくくなったのではないだろうか。

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メンデルゾーン設計、映画館に接続する集合住宅


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2007年05月21日

グロピウスとダンマーシュタット

ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius、1883〜1969)はペーター・ベーレンスの弟子であったが1910年に独立し、ファグス靴工場(1911〜1912)を設計して有名になります。

建築と工芸の国立学校バウハウスをワイマール(Weimar)に造り1919〜1926年初代校長を務めます。これは国立バウハウス・ワイマールと呼ばれ、後のバウハウス・デッサオ(Bauhaus Dessau)と合算すれば10余年の間、世界のデザインの最高峰となりました。あらゆる芸術的創造を会わせ統一する事を目的に、また師弟教育を重んじました。

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グロピウスの設計、隣棟間隔が十分に取られている

すべての生徒は二人の師匠から学ぶこととし、一名は手工作の師匠、一名は構成の師匠から学びました。教師も有名人が名を連ね、カンデインスキ−、パウル・クレー等も含まれています。グロピウス自体はその後バウハウスのデッサオ校の設計も行っています。
しかしグロピウスの自由主義による創造はナチス政権から睨まれ、1934年英国に亡命、さらに1937年には米国に1938〜1952年の間ハーバード大学の教授を務めています。

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「急行電車に座ってダンマーシュタットへ、ダンマーシュタットへ、ダンマーシュタットへ」と宣伝された郊外電車ダンマーシュタット駅の現在。恐らく当時と同じであろう。

第二次大戦後はドイツの建築再興に尽力し、ベルリンのハンザフィアテルでの集合住宅や住宅団地「グロピウスシュタット」をベルリンの南部に作りました。一方カールスルーエ(Karlsruhe)のダンマーシュトック(Dammerstock)に建築家オットー・ヘースラーと共に新しい団地を造りました。1933年に最初の住棟ができ、1933-1945年に建設された住棟、1945年以降に建設された住棟からなっています。カールスルーヘの中心部からかなり離れたところで、最初のスローガンが「急行に座ってダンマーシュトック、ダンマーシュトック、ダンマーシュトック、ダンマーシュトック、へ!」。

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ダンマーシュトックの住宅団地、設計グロピウス1933年以前のもの

1933年当時は住宅は建築としては重要視されていませんでしたが、グロピウスはこれを大切にし、どこの部屋にも太陽が入るようにと東、西からの採光も行われています。十分な住棟間隔がとられ、厨房も主婦の立場にたち、造りつけの厨房器具が備えられました。当時は結核が流行し、その予防に十分な日射の取り込み、住棟間隔は必要であったのでありましょう。(参考文献:Georg Patzer著, Kleine Geschichte der Stadt Karlsruhe, G. Braun Buchverlag)
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2007年05月14日

戦争について思うこと

今米国議会で従軍慰安婦問題が議論されています。戦後生まれの人が75%を占める日本で、「従軍慰安婦って何のこと?」と思う人が殆どでないかと思います。日本人も自らの民族に誇りを持って生きていくのは当然ですし、そうあるべきと考えます。ドイツにおいても戦後生まれの人が大多数を占めるようになり、多くの人は戦争を知りません。

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「この恐怖の場所を我々は決して忘れてはいけない」との看板がベルリンの繁華街ヴィッテンベルグプラッツ地下鉄駅前に掲示されている。ここにはアウスシュビッツ以下12の強制収用所の名前が刻まれている。

しかしドイツ人が戦時中に行なった事を忘れないように、後世に伝えていく努力は一生懸命に行なわれています。日本の教科書に戦争の事は少ししか書いてありません。ドイツの教科書は非常に詳しく書いてあります。ベルリンの繁華街の地下鉄のヴィッテンベルグプラッツ駅前には「この恐ろしい事を決して忘れてはならない」としてナチス時代に強制収用所があった場所が看板として掲示されています。当然アウスシュビッツが一番上に書いてあります。ベルリン郊外のザクセンハウゼン収容所の名前も出てきます。ここの収容所も公開されており、当時の残虐性をそのまま伝えています。そして常に高校生が教員に引率され見学に来て、祈りを捧げています。

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ナチスドイツの時代に大量のユダヤ人が強制収用所に輸送されたベルリンのグリーネバルト駅は高級住宅街の中にある。

ベルリンの高級住宅地に郊外電車の駅グリーネバルトがあります。当時も富裕なユダヤ人が多くこの地に住んでいたそうです。しかしこの駅の17番ホームからユダヤ人が各地の強制収用所へ送られたそうで、現在はこのホームは使用しないで、保存されています。「何月何日に何名のユダヤ人が何処の強制収用所へこのホームから送られた」という事がホームに記入されています。ドイツ人のやる事だけにこういう統計はしっかり出来ています。

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「17番線のホームには1943年11月8日、50名のユダヤ人がベルリンからアウスシュビッツへ送られた」と刻印されている。

今でも花束が投げられている事があります。まさに終戦直前に強制収用所に送られたユダヤ人、これもよく見るとアウスシュビッツが殆どですが、涙が出て参ります。戦争の事を決して忘れないと言う決意、過ちを繰り返してはいけないと言う固い決意を示しているドイツと、まずい事はなにかうやむやにというわが国との差が感じられます。

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「17番線ホーム:1941年から1945年の間ドイツ帝国鉄道は列車により死の強制収用所に送り込んだことを忘れません。1998年1月27日ドイツ鉄道(株)」
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2007年05月07日

コルビジェの建築

1957年のインターバウにコルビジェも参加をしました。しかし氏の作品は大きすぎ、どうしてもハンザフィアテルの中には入りませんでした。マルセイユのユニテで名声を得たコルビジェはこれをベルリンのオリンピックスタジアムの近くに建てさせました。ベルリンタイプのユニテと呼ばれ、氏の3番目のユニテとなりました。

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ベルリンのコルビジェのユニテはオリンピックスタジアムの近くにある

モデュロールは大きめに取られ、部屋の幅は4m、天井高さは2.5mでありました。合計527戸の住宅が収められています。青、赤、黄色と豊かな色彩を随所に配置し、現場打ちの鉄筋コンクリートと工場生産のプレコンを上手に使い分けています。西側ファッサードにはモデユロールが刻まれています。他のハンザフィアテルの建築と同じく1957年の建設ですので、すでに60年が経過していますが、現在も豊かなベルリンの森の中に聳え建ち、これを見る者の心を和ませてくれる不思議な力を持っています。

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コルビジェのユニテにはモデユロールが刻まれている。

ベルリンの鉄道Sバーンの終点オリンピックスタジアム駅の直ぐそばに建っています。コルビジェの建築は打ち放しコンクリート、ピロティーと呼ばれる高床式構造が特徴ですが、前川国男、坂倉準三、吉村順三、吉阪隆正などの弟子により日本にうまく順応してコルビジェの方式が導入されました。むしろコルビジェが日本の白木の建築、高床式構造からヒントを得たと言っても良いのでしょう。

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コルビジュエのベルリンのユニテ

1806年のナポレオンによるプロシャ撃破、1812年にはナポレオンのロシア遠征失敗によりプロシャ軍など連合隊によるナポレオンの敗退、ナチスドイツではドイツ軍に首都パリを占領されるなどドイツとフランスは常に戦争を繰り返していました。戦後もドイツ並びに西ベルリンは一部地区をフランスにより占領されていました。

このような状況の中、フランスの巨匠ル・コルビジェがベルリンにユニテを作った事は格別な意義があると思います。政治的にもドイツの首相アデナウアーとフランス大統領ドゴールが手を握り、EC(欧州共同体)が出来、さらに現在のEU(欧州連合)にまで発展するに至ったのです。筆者がベルリン工科大学にいた頃、フランスの子供をドイツの家庭に送り、ドイツの子供をフランスの家庭に送り生活をさせるということが始まり、当時は驚きの目で見られていました。このような地道な努力が実を結んで共通の通貨が使用されるなど、強いEUが出来てきたものと考えます。

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ドイツのアデナウアー首相とフランスドゴール大統領の握手は長く続いた独仏の戦いに終止符を打ち、現在の強力なEUを作る基礎となった。
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