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2007年06月25日

ブルーノ・タウトの設計した住宅を拝見(2007年4月)

ベルリンでブルーノ・タウトは12000戸の集合住宅を設計している。その中でも大きいのがベルリンの西郊オンケルトムズ・ヒュッテの団地、ジードルングである。2007年4月にベルリンを訪問したときにブルーノ・タウトの設計した集合住宅の中を拝見させていただいた。


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今回室内見学を行なったオンケルトムズヒュッテ、アルゼンチン大通りの集合住宅、1927年設計

これは地下鉄駅オンケルトムズ・ヒュッテのすぐ近くにある、リーマイスター通り(Riemeisterstr.)とアルゼンチン大通り(Argentinische Allee)の交差点近くに建つ集合住宅の1階にお住まいのKさん邸である。1927年設計の物件であるので、昭和2年ということになる。初対面のKさんであったが、快く案内をしていただき、まさに部屋の隅から隅まで案内してくださった。

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とても1927年設計の住宅と思えない現在の居間、このように居間を保つのもドイツ夫人の真髄か。

わが国では昭和30年代建設の住宅も建て換えが行われるというのに昭和2年建設の住宅がまるで、新築同様、どこか住宅展示場のモデルハウスの如くに維持されていた。もともとドイツ夫人は住宅の手入れ掃除が得意で、時間があると窓拭き掃除を行っているのであるが、改めて感心をしたものである。また自宅に人を呼んでパーティーを行う習慣がある。その際には部屋の隅から隅まで案内をしてくれるのがドイツ夫人の常である。

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当初カッヘルオーフェンの煙道であった場所が現在は飾り柱となり、残っている」

どの部屋も大変きれいに片付けられていて「恐れ入りました!」となるのであるが、考えてみると彼らは日本人に比べ少ない持ち物で生活が成り立っている。食器一つ取っても日本では和食器、洋食器、中華の食器さらに夏用の食器、冬の食器とやたらと多く収納に困ってしまうものである。衣装も同様で、ドイツでは四季を問わずそう変化はなく、冬は外が寒いので、厚いオーバーを引っ掛けて外出するぐらいである。

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地下室を案内されると”15名用の防空壕として適する”の朱書に改めて驚く。

さて部屋の隅々まで拝見させて頂、最後に地下の収納倉庫となった。ここでハッとしたことがある。地下室にはドイツ語で「ここは防空壕として適する」と朱書されていたのである。考えてみればこの住宅は第一次世界大戦の後に建ち、第二次世界大戦を抜け、その後も西ベルリンの周囲はソ連軍が包囲をしていたという緊張の中で生活をしていたのである。今の平和の時代には想像も出来ないことであるが、つい数年まではそういう時代であったのである。きっとこの地下室は厚いコンクリートで堅固に作られたのであろう。
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2007年06月18日

カッヘルオーフェンと暖房・衛生国際見本市ISH カッヘルオーフェンと暖房・衛生国際見本市ISH

前回昔のカッヘルオーフェンを紹介したが、最近これが見直されてきている。地球温暖化ガスである二酸化炭素排出を削減するために「薪」を使用しましょうという運動である。樹木は森林で成長する段階で二酸化炭素を吸収して炭素として固定してくれる、大変地球環境に優しい燃料である。カッヘルオーフェンで薪を燃焼し、放射による暖房を行えば室温が低くても快適性が保たれ、省エネルギーにもあるという説である。
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2007年3月のISHに展示された現代のカッヘルオーフェン「薪を使用することが環境に優しい行為」としている。

当然伐採した樹木の後は植林をし、林業も活性化させようという考えである。2007年3月にフランクフルトで「暖房と衛生の国際見本市:ISH」が開催された。ここで多くの新製品が発表されるのであるが、カッヘルオーフェンがかなり展示されていた。当然カッヘルオーフェンの横には薪を積み上げて地球温暖化防止に貢献する事をアピールしていた。
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2007年3月のISHに展示された現代のカッヘルオーフェン「薪を使用することが環境に優しい行為」としている。

自分の家では薪を燃料として地球環境保全に努力していますとアピールする家も現れた。ここに示す住宅はグロピウスがカールスルーエの郊外ダンマーシュトック(Dammerstock)に1930年に造った団地の中にある住宅である。住宅の設計はグロピウスである。当然ながら窓枠などは最近のものに変更されている。
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薪を使用することは二酸化炭素削減に寄与するとして、環境派のシンボルにもなっている。カールスルーエ郊外ダンマーシュトック(Dammerstock)のグロピウス設計(1932年)による団地にて

国際見本市ISHは年々賑わいを増している。開催中はフランクフルトのホテルは一杯になり、かつ料金も高くなる。会場は新宿駅のような混みようである。隔年に開催されるが、今年は中国の出展が急増した。ドイツ製と区別が付かないような良質の温水放熱器を出展している中国の会社もあった。
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2007年3月開催のISHではカッヘルオーフェンの造り方に関するデモもあった。
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2007年06月11日

陶製放熱器カッヘルオーフェン

4大文明の発祥の地は年中気候も良く、大した衣服を纏わなくても生活が出来る気候帯であった。しかし人間が生活圏を広げると共に、より寒い土地にも居住するようになった。現在のドイツにも遺跡として床下で燃料を燃焼し床を暖めるヒポカウステン暖房(Hypokaustenheizung)と呼ばれる暖房方式が見つかる。これはローマ人の暖房方式でローマ人が現在のドイツの土地に居住していた証明とされている。最も北で見つかったとされるものではトリア(Trier)に大きなヒポカウステン暖房(Hypokaustenheizung)の遺跡がある。これは規模こそ異なれライン河沿いのケルンやマイン河沿いのフランクフルト、ミルテンベルクなど多くの土地で発掘されローマ人が北上していたことを示している。この暖房方式はウィーンでも発掘されている。その後、ゲルマン人特有の暖房方式が発達するようになった。
人間は寒ければ当然様々な暖房方法を考えるもので、鋳鉄製の放熱器も存在したが、ドイツで特徴的なのは陶製放熱器カッヘルオーフェン(Kachelofen)である。これは現在でも古い住宅で使用されているし、復古調の動きにものり新築住宅で使用されている場合もある。
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うわ薬をかけ、光沢を出したカッヘルオーフェン。1914年にカール・ゼンセ社(Karl Sensse)で製造(Veltenの博物館にて)

燃料は固形、液体、気体と様々な可能性があるが、暖炉の表面は化粧タイルで仕上げられている。博物館や城などに残るものはかなり意匠的にも凝ったものが多いが、庶民の住宅で使用されたものは単に白いタイルで仕上げられたものもある。
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着色され、多彩な模様のあるカッヘルオーフェン。マルク・ブランデンブルク(Mark Brarndenburg)で16世紀にあったものを19世紀末に再度製造した。
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1902年にマイセンの製陶工場で製造された円形カッヘルオーフェン。意匠登録のため製造された。(Veltenの博物館)
カッヘルオーフェン(Kachelofen)は多くの場合室内の隅に置かれ、これから放射成分の多い放熱を行い、反対側の外壁内部を直接温めた。Kachelofenを中心として家族団らんの場ができた。
暖炉の内部には耐火粘土も用いられ、熱容量も大きくやわらかい暖房を行った。この「やわらかい暖房」が欧州の温水暖房に発展してきている。米国では開拓時代の名残か、幌馬車での移動生活からダルマストーブが用いられ、このカッカとした暖かさが現在の蒸気暖房に繋がったとされている。日本には欧州式の温水暖房と米国式の蒸気暖房が入ってきた。2007年3月にベルリンの郊外フェルテン(Velten)でカッヘルオーフェンの博物館を訪ねた。ここでの特徴的なカッヘルオーフェンを紹介する。
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Veltenの博物館には昔のカッヘルオーフェンのカタログも置いてあります。「練炭の種類を煤なしで燃焼するカッヘルオーフェン」と説明されています。
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家庭を築くと居間の中心となるカッヘルオーフェンを作ったか寄贈されたようです。1856年に結婚した夫婦の名前がデザインされています。(Veltenの博物館にて)

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2007年06月04日

カールスルーエ

少し古い本になるが、崎村茂久さんという方が書いた「ドイツと日本−体験的ドイツ論(三修社、1978年)」を読んだことがある。カールスルーエの郊外に14年間住んでの体験が書かれており、興味深く、一気に読んでしまった。

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カールスルーエ城

中にカールスルーエの市民公園に上原教授のもと、日本から来た庭師と共に日本庭園を造る話がある。1971年〜1973年までベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所の客員研究員していた頃知り合った友人でマンフレド・ボヤシェブスキ−(Manfred Bojaschewsky)というベルリンの高等学校(ギムナジウム)で物理の教師をしていた男がいる。もうリタイアし年金生活であるが、リタイア近くに念願の結婚を果たした。しかし夫人はカールスルーエに職があり、マンフレッドはベルリンに住宅を持っている。そこでお互いにベルリンとカールスルーエを行ったり、来たりの生活を送っている。

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カールスルーエの最高裁判所建物の一部、かつて左翼の襲撃があったので、警備が固い

そんな関係で、筆者はマンフレッドがカールスルーエにいるときは彼をそこに訪ねる。崎村さんも造園に加わった日本庭園は確かに市民公園の中にあり、なかなか立派な物である。カールスルーエはカール・ヴィルヘルム伯が1715年に現在に城を築いてからの町であるので、古い町とはいえない。人口273,000人、面積173.46km2で大学が6校もある。

カールスルーエには最高裁判所と憲法裁判所があり司法の最高機関の町と言うことになる。日本は立法、行政、司法の三権の最高機関はすべて首都である東京にあるが、ドイツは連邦国家のため立法はベルリンに司法はカールスルーエに、行政は主にベルリンとボンに分散されている。また、中央銀行はフランクフルトにある。すべてを東京に集中させている日本は効率がよいのか、それとも東京に万一のことがあった場合は日本全体が破滅と言うことにも成りかねないという危険性を背負っているのか。

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カールスルーエ工科大学、ハインリヒ・ヘルツ(1857〜94)は同大学の教授を務めた

カールスルーエに最高裁判所があることから、カールスルーエ大学の法学部は優秀なのかとも思っていたが、実はそうでなく、工科大学が良いのだそうである。周波数の単位であるヘルツの元となったヘルツ教授はカールスルーエ大学の教授であったそうである。
我が国では首都圏と地方との格差も問題になっているが、ドイツは地方都市がしっかりしており、格差を感じない。人口237,000人の町に博物館が17、劇場が10存在している。カールスルーエの城は扇状に広がり、32の道が軸をなして広がり町を形成している。城の公園は市民に公開され、小型の蒸気機関車が子供たちを乗せて歓声の中、煙を上げて走っていた。
国家権力をすべて中央に集中する方式がよいのか、ドイツのように分散する方式がよいのか、首都移転問題も含めて考える必要があろう。

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カールスルーエ城の公園を子供の歓声に包まれて走る小型蒸気機関車

posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 街並み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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