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2007年07月30日

フンデルトバッサー設計のウイーン芸術の家(Kunsthauswien)

この建物は家具会社トーネット兄弟社(Gebrüder Thonet)の跡地にあり銀行家フロッテル(Walter Flottle)の出資によるもので、公的資金は入っていません。ウイーン市営住宅の比較的近く、Unteren Weißgerberstraßeに建っています。フロッテルはウイーンを欧州の地理的な中心と考え、ここでの国際芸術展示を希望しました。着工が1989年で、1991年4月に竣工しています。

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ウィーン芸術の家のエントランス。床は決して平坦ではない。

展示場面積は4000m2あり、1階は入場券売り場、コーヒーショップ、売店、クロークなどがあり、2階がフンデルトバッサーの作品展示場となっています。氏の描いた数々の絵画、つづれ織りの掛けもの、建築模型などが展示されています。そして3階から4階は展示物が置き換わる国際展示場となっています。

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ウィーンの芸術の家。フンデルトバッサーの絵や設計図もたくさん展示されている。

フンデルトバッサーはこの建物に対し、「芸術は色彩を認知しなければならない」「芸術は人間に向けられたものでなければならない」「芸術は創造の為のものか?それとも創造に相反するものか」「芸術は人間の為のものか?それとも人間に相反するものか」という言葉を残しています。この芸術の家もウイーンの街中にありながら多くの緑を取り込み、特に中庭の緑は素晴らしいと思います。ここではコーヒーやケーキを飲み食べることが出来ます。

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ウィーンの芸術の家の中庭ではコーヒーやケーキを楽しむことが出来る。

しばし旅行の疲れを癒すのに最適な場所です。日本の夏にこのような場所でボーッとしていればたちまちやぶ蚊の餌食になったり、樹木から下がってくる毛虫がコーヒーに入ってしまったりと、とんでもないことになるのでありますが、緯度の高い所に所在するウイーンではそういうことはありません。

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ウィーンの芸術の家のトイレのタイルに至るまでフインデルトバッサーによりデザインされている。
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2007年07月23日

フンデルトバッサーのウイーンの市営集合住宅(Hunderttwasserhaus Wien)

この住宅はフンデルトバッサーを建築家として有名にさせた作品で「集合住宅は直線からなる、特に公共建築においては」というウイーン市の建築担当者の概念を打ち破ったものであります。1977年に設計に入り、1983年8月着工、1986年2月に竣工しています。

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フンデルトバッサーの名前を有名にしたウィーンの集合住宅。水を愛し、噴水のある作品が多い。

ここでフンデルトバッサーは建築家ペリカン(Peter Pelikan)の協力を得ています。設計着手から着工まで相当の歳月を要しているがウイーンの集合住宅、公共建築の概念を打ち破ることに対する抵抗が大きかったことを想像させます。しかし「フンデルトバッサーの思うようにやりなさい」という当時のウイーン市長グラッツ(Leopold Gratz)のの強力な後ろ盾を得てこれを完成させています。1977年12月16日にウイーンの市庁舎を訪問し、フォヒ助役(Pfoch)と面会し、ウィーン市役所の建築技師クラビナ(Josef Krawina)の協力を得ることになりました。

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フンデルトバッサーの出世作。ウィーンの集合住宅。環境共生住宅のはしりでもある。

屋上には葱坊主がのり、様々な樹木が植栽され、窓からも木が生え茂っている、ファッサードはカラフルな色彩と曲線。フンデルトバッサーを世界的に有名にした代表作であります。住宅はウイーンのKegelgasseと Löwengasseに面して建てられています。フンデルトバッサーはここでも建築職人と一緒に仕事をし、コンクリート練り、タイル貼りまで手を出し、直接指導を行っています。屋上の植栽も職人が適当に植えたのではないかと想像されますが、実はそうでなく、フンデルトバッサーが屋上の植栽図面を描き、しらかば、クルミ、桜、菩提樹、などを植える場所を丁寧に示しています。正真正銘の設計施工であります。
フンデルトバッサーはこの住宅に寄せて「この家は人間の鏡の映像である“Das Haus ist das Spiegelbild des Menschen”」という言葉を寄せています。

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フンデルトバッサーは自らの名前を「百水」と称したように水を愛した。噴水や池を取り入れた建築が多い。
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2007年07月16日

フンデルトバッサー設計のドイツダルムシュタット(Darmstadt)にある集合住宅

赤や黄色、緑、そして青が多用され、どこまでも続く曲線、渦巻きが多用され屋根や窓から樹木が覗いている建築、それがウイーン(Wien)出身の建築家フンデルトバッサーの作品です。フンデルトバッサーは1928年にウィーンで生まれ、本名をフリードリッヒ・シュトバッサー(Friedrich Stowasser)と言いました。生誕直後の1929年に技術職の役人であった父親を失っています。

少年時代から色彩と造形に特異の才能を示し、教師を驚かせましたが、母方がユダヤ系の家族であった為、1938年には強制疎開を行い祖母と叔母の元に行っています。そして1943年には母方の親族69名が強制連行され殺害されています。その中には祖母、叔母も含まれていました。このような生い立ちが氏の作品に多大な影響を与えたとする解説書もあります。

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フンデルトバッサー設計によるダルムシュタットの集合住宅

1948年に大学入学資格を得、ウイーンの美術工芸アカデミー(Akademie der Bildenden Künste in Wien)に入学、ロビン・クリスチャン・アンダーセン(Prof. Robin Christian Andersen)教授に師事しています。(このアカデミーは画家を目指して受験したヒットラー(Hitler)が入学に失敗をした事でも有名な学校であります。)しかしアカデミーでは長続きせず1949年に北イタリア、トスカーナ、ローマ、ナポリ、シシリア島を絵を描きながら旅行をしています。そこで後に氏の建築に現れる赤や黄色、緑、そして青が多用され、どこまでも続く曲線、渦巻きが絵画に現れてきます。この年が氏の様式が確立されたときでもありました。

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フンデルトバッサー設計によるダルムシュタットの集合住宅、外断熱が施されている

そしてこの年にフンデルトバッサー(Friedensreich Hundertwasser)と名乗るようになります。Hundertはドイツ語で「百」をWasserは「水」を意味し、「百水」ということになります。ちなみにFriedensreichは「平和な帝国」を意味します。幼少の頃ユダヤ系の血をひく市民として迫害を受けたことは生涯決して忘却できるものではありませんでした。氏の作品はこの名前から水と親しむ建築が多いのです。水が流れ、緑が茂り、人と自然が共存する建築であります。事実、氏の作品には噴水や池があるものが多いのです。

その後も外国旅行を繰り返し、特にパリでの生活が長く、絵を描いては展覧会を開き、賞を得るという生活を繰り返しています。ここではダルムシュタットのフンデルトバッサー住宅を紹介します。ダルムシュタットはフランクフルトの南、凡そ40kmのところに有る工業都市であります。人口14万人の市であります。ここの大化学工業会社に敷地を隣接してフンデルトバッサーの住宅が建っています。この住宅は一時化学工場の拡張に伴い取り壊しの危機にたたされたことがありました。しかし一般市民の反対運動によりその難は免れて現在も存在しています。そのような災難があったせいか、他のフンデルトバッサー住宅に比べ、建物が若干疲れたように見えます。これは住宅の着色が少し褪せてしまったせいかもしれません。この住宅はダルムシュタットの森の螺旋 ”Waldspirale von Darmstadt” と呼ばれています(所在地はBad Neuheimer Straße 6, D-64289 Darmstadt)。建物の平面はU字形になっており、中庭が存在します。この建物も外断熱が施されています。

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フンデルトバッサー設計によるダルムシュタットの集合住宅・少し色褪せてきている
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2007年07月09日

プロヒンゲンのフンデルトバッサーハウス

プロヒンゲン(Plochingen)はシュッツトガルト(Stuttgart)の郊外にあり、シュッツトガルト中央駅から郊外電車に乗ると40分程度で行くことができます。ウルム(Ulm)やミュンヘン(München)方向に向かう列車も、鈍行であればプロヒンゲンに停車します。駅前にすでに “Hundertwaserhaus(フンデルトバッサーの住宅)“ と建て看板があり、徒歩5分程度で到着する至近距離にあります。列車の車窓からもこの目立つ住宅は目に入ります。

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プロヒンゲンの集合住宅にあるフンデルトバッサーの自画像。フンデルトバッサーは鳥打帽を愛用しました。氏はこの仕事により市長の希望を実現しました。

当初建築家シュプリングマン氏(Heinz. M. Springmann)が手がけていましたが、ベック(Beck)市長の要請によりフンデルトバッサーが参加しました。一部工業用地を含む、高速道路と鉄道の交差する土地にこの集合住宅は建っています。市長は「プロヒンゲンのシンボルになる住宅を!」と要請し、フンデルトバッサーはこれに応え、高い派手な水道塔を設け、これが住宅のそしてプロヒンゲンのシンボルとなり、高速道路を走る車や列車の車窓から見えるようにしてあります。

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フンデトバッサーによるドイツ・プロヒンゲンの集合住宅

住宅には中庭を設け、中庭に面するファッサードに曲線を多く取り入れた窓、多彩な着色、そして窓辺の植栽と訪問者の目を楽しませてくれます。ウィーン(Wien )郊外で生まれたフンデルトバッサーは「ウイーンのような大都会に自然は無く、そこに多くの人が生活をしている。ではその生活の舞台である住宅に自然を取り入れればよいではないか、そして自分が幼少時代をすごしたオーストリアの森、郊外に直線は無い、全て曲線から構成されていた」と主張し、ここプロヒンゲンの集合住宅だけでなく全て氏の作品は曲線が取り入れられています。

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フンデルトバッサーによるドイツ・プロヒンゲンの集合住宅

ここの住人も本来中庭で日光浴をしたり、コーヒーやビールを飲んだりすることを希望するでありましょうが、こうも多くの見物客が訪問するとなると住人のプライバシーなど損なわれてしまうでしょう。有名建築家の作品の住人にはプライバシー保護の権利はある程度損なわれても仕方が無いのかもしれません。という筆者も実に出張のある度、この住宅を訪問し、その数5回になります。決して特定の住宅を覗きに行ったわけではない事をお断りしておきます。この住宅の着工は1990年11月、引渡しは1994年2月であります。

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フンデルトバッサーによるドイツ・プロヒンゲンの集合住宅
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2007年07月02日

ヴァルトブルグ城

マルチン・ルター(Martin Luther 1483年〜1546年)は宗教改革者として尊敬を集めています。ヴィッテンベルグ(Wittenberg)大学教授として神学を深め、ついにキリストによる罪のゆるしを信じるだけで救われるとの確信に達します。

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城の眼下にチューリンゲン(Thüringen)の森が広がる。

1517年、教皇の免罪符の無意味と不当をつく95か条を公表し、宗教改革の口火をきります。旧教側とハイデルベルク(Heidelberg)、ライプチッヒ(Leipzig)で論争を起こし、1521年ヴォルムス(Worms)の国会に召喚されますが、自己の立場を変えず、法の保護を奪われます。その時の結びの言葉「私はここに立っている。私はこれ以外の事はなしえない“Hier stehe ich; ich kann nicht anders”は全ヨーロッパの関心をとらえたと言われます。

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ヴァルトブルグ(Wartburg)城遠景、ルターが幽閉され、保護されていたことから十字架が付いている

ザクセン(Sachsen)公フリードリッヒ3世の城であるヴァルトブルグ(Wartburg)城に保護され、ルターはここでギリシャ語の聖書をドイツ語に翻訳します。これがグーテンベルグ(Gutenberg)の印刷術により印刷され、部族ごとに異なっていたドイツ語も統一されたといわれます。これもヴァルトブルグが当時のドイツの丁度中央に位置していたからとも言われますが。ヴァルトブルグ城は写真に見るように敵が攻め込めない堅固なつくりをしています。
現在は城内にホテルも出来、部屋は全て眼下のチューリンゲンの森を見渡せるように出来ています。この森を紅いに染めて夕日が沈み、森はたちまち墨絵のようになり、そして夜のとばりがおります。城は静寂に包まれ、気がつくと星が満天の夜空に輝いています。テーブルに蝋燭がともり、ワインを飲みつつのホテルの夕食は旅の疲れを忘れさせます。一方で500年前にルターがここで幽閉されつつも頑張って自分の主張を貫いたという思いに厳粛な気分になりました。

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マルチン・ルターが幽閉・保護されていた房に残るカッヘルオーフェン(Kachelofen)

城内にはルターの部屋という粗末な房があります。現在はここにドイツ語に翻訳された聖書が飾られ、ルターが翻訳の仕事をした机と椅子が残っています。冬は当然寒かったわけですから、房の隅にカッヘルオーフェン(Kachelofen)の暖炉が置かれていました。米国でも「エリートはWASPから出る」「WASPでなければ出世できない」といわれます。WASPは言うまでも無く、白人で、アングロサクソンでプロテスタントと言う意味ですが、プロテスタント(抗議者、抵抗者)はここで生まれました。ちなみにドイツ語ではプロテスタントをエファンゲリシュ(Evangelisch)と言います。

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マルチン・ルターの房に飾られるドイツ語に翻訳された聖書
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