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2007年08月27日

ライン河

ライン河は流量が豊富で、ゆっくり流れ、流量は年間を通じて安定しています。河川の最大流量を最小流量で除した数値を河川工学では河状係数と呼んでいます。河川の安定度を示す数値であります。

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ゾンネック城(Burg Sonneck)

同じ河川でも場所によりこの数値は異なるので、地名が必要になります。ライン河の流れるケルンでは16であるのに対し、利根川(栗橋)は850、比較的穏やかに流れているように見える淀川(枚方)で104であります。

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ライヒェンシュタイン城(Burg Reichenstein)

年間の平均流量もライン河(ケルン)で2000トン/毎秒であるのに対し、利根川(栗橋)は171トン/毎秒、信濃川(大河津)は477トン/毎秒であります。日本の河川は主に畑の感慨に使用されたのに対し、ライン河は船舶の航行に使用され物資の運搬に役立ってきました。それだけにあちこちに通行税を取り立てる関所もあったのです。

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シュトレック城(Burg Stohleck)

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ラインシュタイン城(Burg Rheinstein)

ライン河に沿っては中世の城が非常に多く残っています。マイン河とラインが合流するマインツからモーゼル河が合流するコプレンツまでラインを下るとラインシュタイン城(Burg Rheinstein)、ライヒェンシュタイン城(Burg Reichenstein)、ファルツ城(Pfalz)、猫城(Burg Katz)、マルクス城(Marksburg)などを見ることができます。これらはラインを行き交う船に通行税をかけようとする諸侯の思惑もあり、切り立った崖や山腹に造られた城(Burg)です。

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ライン河で通行税を取り上げた猫城(Burg Katz)

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2007年08月20日

マインツ

マイン河がニュルンベルク、バイロイト、ヴュルツブルク、ミルテンベルクそしてフランクフルトを経てライン河と合流する町がマインツです。中世ドイツの首都でありました。ローマ時代以来軍事・交通の要所でありました。
4世紀には司教区が置かれ、ボニファーチウスがマインツ初代の大司教になっています。中世にはマインツの大司教は7人の選帝侯の筆頭でありました。神聖ローマ帝国の文化的な首都の観を呈していました。赤っぽい砂岩でできた大聖堂は、ドイツの3大ロマネスク建築の一つであります。

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マインツの赤砂岩でできたロマネスク様式大聖堂

またこの町は可動式活字による印刷術を発明したヨハネス・グーテンベルク(1400年頃〜1468年頃)の出身地であります。当時は手書きで行われたものが印刷されるという事は、現在のインターネットの出現と同じく情報革命でありました。マルチン・ルッター(1483年〜1546年)がギリシャ語の聖書をドイツ語に訳し、これがグーテンベルクの印刷機で印刷され、部族ごとに異なっていたドイツ語も統一されたと言います。

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マインツにあるグーテンベルク博物館には氏の作成した活版が保存されています。


グーテンベルクは印刷機、活字を作るため銀行家フストから借金をします。そしてフストにうまく儲けられます。グーテンベルクは印刷機の秘密が漏洩しないように隠れ家で仕事をしますし、うまく金儲けをするフストはゲーテの大作ファウストのモデルであるとの説もあります。

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可動式活字による印刷機を発明したグーテンベルクは聖書を普及させる、ドイツ語を統一させるなど当時の情報革命の担い手でした。しかしゲーテのファウストにも出てくるような波乱に富んだ人生を送った人でもあります。グーテンベルクはマインツの人でした。
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2007年08月13日

戦争について思うこと2

ベルリン市の中心地である処にブランデンブルグ門が建っています。ここからそう遠くない広大な土地に2005年5月のドイツ終戦記念日に虐殺された欧州のユダヤ人のための追悼記念碑(通称ホロコースト記念碑)が建設されました(場所はCora- Berlinerstraße 1です。)

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「ホロコースト記念館」の上に軽気球が浮かんでいました。

ここには様々な高さの黒いお墓のようなコンクリート塊が並んでいます。ここの地下には展示場があり、いかにヒトラー、ナチズムが残酷であったかを公開しています。そして多くの学生が教員に引率されここを訪ねます。

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ホロコースト記念館では「死体を示す」パフォーマンスも

ドイツでは終戦40周年記念日に当時のヴァイツエッカー大統領が「本日は祝日ではない・・・歴史に盲目になるものは現実にも盲目になる」という趣旨の演説を行い、また2005年1月ナチの絶滅収容所が解放された60周年記念日にシュレーダー前首相は「戦争を知らない世代もこのユダヤ人大量虐殺の記憶から目を離すべきでない・・」と演説を行いました。「この記憶がドイツ国民のアイデンテイテイの一部をなしているからである」とも述べています。

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ベルリン、ユダヤ博物館(建築家ダニエル・リーベスキント(Daniel Liebeskind)設計)

ベルリンには建築家ダニエル・リーベスキント(Daniel Liebeskind)設計によるユ
ダヤ博物館もあります。ここではユダヤの歴史、ドイツとユダヤ人が融和していた時
代(ハイネの時代)そしてナチによる迫害と強制収容所への連行、殺害という歴史の
展示が行われています。

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ユダヤ博物館にて「当店はユダヤ人にサービスしません」との看板展示

歴史への反省という点で、ドイツと日本の相違がよく指摘されてきました。わが国は植民地支配、侵略戦争の罪への反省を忘れるような姿勢を貫いてきました。これはドイツと日本の歴史教科書を比較すればよくわかります。戦後処理に関し、周囲の国と比較的うまくいっているドイツを見るにつけ、周囲の国とトラブルの多いわが国の将来が心配であります。兎も角「戦争は決して起こしてはいけない」「周囲の国々と仲良くやっていきたい」というのが戦争を知っている最後の世代である私の主張であります。
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2007年08月06日

フンデルトバッサー設計のウイーン・シュピッテラウ(Spittelau)の地域暖房プラント

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ウィーンの地域暖房プラントの案内図。この図面もフンデルトバッサーによりデザインされた。

これは、住宅に熱を供給するプラントであり、以前は無味乾燥な建物でありました。ウィーン市の郊外にあり、市の中央からは地下鉄で行くことができます。建築家ペリカン(Peter Pelikan)の協力を得て建設されました。また地域暖房公社の技師クライナー(Jürgen Kleiner)が設備設計を行っています。1988年に着工、1992年に竣工しています。

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ウィーン郊外のシュピッテラウにあるゴミ焼却場兼地域暖房プラント

とてもプラントと思えないカラフルな彩色、煙突には葱坊主を用い、植栽を行っています。ゴミ焼却場の廃熱を熱供給しようというもので、かつ煙突からの廃ガスは極めて高度な浄化施設を採用しています。

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ごみ焼却場などは本来無味乾燥の建築が多い。ここでフンデトバッサーは既成概念を覆し氏の主張する思い切ったデザインを行った。屋上の左側に氏の鳥打ち帽が見える。

フンデルトバッサーはこの建物に対し、「人間は自然から来た客人である。従ってゴミを出さないように努力すべきである」という言葉を残しています。氏はごみを出さないこととしてゴミ焼却の廃熱を利用し熱供給を行ったのでした。

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これは既設のウイーン市の地域暖房プラントの管理棟であった。フンデルトバッサーは既設の事務所棟に燃えさかる炎をイメージし、赤い船を入れることで、隣接する自らの設計によるごみ焼却プラントとのバランスを取った。
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