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2007年10月29日

ドイツ連邦議会(旧帝国議会)

1884年−1894年に建築家パウル ヴァロット(Paul Wallot)の設計により建設されました。これはコンペによったものでありましたが、当局により相当変更され重厚で威厳のある建物になったとの事です。1933年に不審火により、炎上しヒットラーはこれは共産党による放火事件であるとしました。そして共産党の弾圧に乗り出します。そして自らの政権を確固たるものとし、破局の第二次世界大戦へと導きます。第二次世界大戦末期、この帝国議会はソ連兵に攻め込まれ、占領され、屋上にソ連国旗が打ち立てられました。現在でも屋上にロシア語の文字がいたるところ残っています。

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英国人建築家フォスターにより改修されたドイツ連邦議会(旧帝国議会)

大戦後、西ドイツは仮の議事堂をボンに設け、この帝国議会は旧西ベルリン側に残ったのですが、平和希求の博物館として使用されていました。そして東西ドイツの統一後、再びこの旧帝国議会がドイツ連邦共和国議事堂として使用されるようになりました。その際の改修設計は旧敵国である英国の建築家ノーマン フォスター卿(Sir Norman Foster)により1995年−1999年の間に行われました。第二次大戦中はドイツから英国本土へロケットを打ち込み、英国はドイツの敗戦が決定的になってからドレースデン、ライプチッヒ、ケーニスベルクなど主要都市に徹底的な爆撃を加えました。お互いに憎しみ会う中、ドイツの重要建築の修復を英国人建築家に依頼すると言う事は大変な決断と勇気があったわけです。

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ドイツ連邦議会前に建つナチ政権の犠牲になった国会議員の名前と所属政党、殺害日を刻印した鉄製哀悼碑

ドイツ連邦議会の前にはナチ政権により犠牲となった、国会議員名前とその所属政党(主に共産党)と殺害された年月日が刻印された鉄製の碑が建てられています。議事堂の近くには「ドイツを恐れることは無い」(Keie Angst vor Deutschland)と書いた碑がありますが、これを見るドイツの若者は「誰が今のドイツを恐れるのだ?」と笑います。

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ドイツ連邦議会近くにある石碑「ドイツを恐れる必要は無い」



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2007年10月22日

オクトーバーフェスト(Oktoberfest)

オクトーバフェストは10月のお祭りという意味ですが、まさに収穫祭です。ミュンヘンで行われ、世界から観光客が集まります。

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オクトーバーフェストの会場となるテレジエンビーゼ

実際には例年9月の末から10月の初めにかけて、ル−ドヴィックT世の妃テレジアを記念したテレジアンビーゼ(Theresienwiese)という巨大な広場で行われます。ミュンヘンの中央駅から地下鉄で行く事が出来、バイエルン衣装の人々に付いていけば自然に会場に到達します。

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オクトーバーフェストの朝の顔

世界最大のビール祭りと言えばそれまでですが、ここには朝の顔、昼の顔そして夜の顔があります。朝は幼稚園児が先生に連れられ、まさにお手々繋いでやってきます。

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オクトーバーフェスト朝の顔。幼稚園児の後ろで大量の鶏肉が焼かれています。

会場はまだ大量の鶏を焼いたり、鱒を焼いたりという準備中です。昼はビヤ樽を乗せた馬車が会場に入りパレードが始まります。大きなテントのビアホールではそろそろジョッキーを傾ける人も出てきます。

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オクトーバーフェストの昼の顔。まだシラフの人たちがビールを飲み始めます。

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オクトーバーフェストの昼の顔。パレード。

そして夜になるとどのテントのビアホールもバイエルン衣装の人で一杯、楽隊も入り、大騒ぎになります。バイエルン衣装での踊りも始まり夜も更けていきます。ビールを飲んでは食って、食っては飲んでと、今の健康志向の世の中に逆行する。あまり健康によいお祭りではないようですね。でも皆様楽しそうです。

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オクトーバーフェストの昼の顔。パレード。
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2007年10月15日

ブランデンブルグ門

1788年−1791年に建築家カール・ゴットハルド・ラングハンス(Carl Gotthard Langhans)により建設された。ベルリン市を象徴する建造物で、プロシャ王国の凱旋門の役割を果たしました。アテネの神殿の門を手本にして作られ、ドイツ古典主義の代表作であります。後にベルリン市を形作る多くの建造物を残した建築家カール・フリードリッヒ・シンケル(Karl Friedlich Schinkel, 1781年−1841年)ギリシャ建築を基本とする新古典主義を展開しましたが、その手本ともなった建造物であります。

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「平和が戻ってきたブランデンブルグ門」

門の上には勝利の女神と4頭立ての馬車カドリガ一旦プロシャを破ったナポレオンにパリに持ち帰られましたが、1814年ベルリンに戻りました。門の奥行きは11m、柱の高さは14mでギリシャのドーリア様式ではありますが、プロポーションは実物より細長くできています。

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ブランデンブルグ門の4頭立馬車と勝利の女神

建設されている場所はパリザープラッツ(パリ広場)ですが、西側から見るとベルリン市一番の繁華街ウンターデンリンデンに繋がっています。東西冷戦時は丁度ブランデンブルグ門に沿ってベルリンの壁が築かれていました(この壁の建設されていた場所は現在も白い線で示され、場所がわかるようになっています)。ブランデンブルグ門そのものは当時東ベルリン側に入っていました。西ベルリン側にはお立ち台のようなものが出来、そこから東ベルリンの生活が覗けました。

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ブランデンブルグ門の近くには東西冷戦時代に東から西へ逃亡を企て失敗し、殺害された方々の墓標が立ち並びます。

当然東側の国境警備隊が立ち、国境地帯に侵入すれば直ぐに襲ってくるシェパードも放し飼いにされていました。それでも時々西側のお立ち台から東の親戚であろうか、時々手を振り合う人々もいました。今はベルリンの観光名所のひとつで、車もブランデンブルグ門を行きかい平和を謳歌していますが、筆者がベルリンに居住していた1971年から73年はまさに緊張のど真ん中にあったのです。東から壁を乗り越え西側の逃亡しようとして失敗した人々の墓標がブランデンブルグ門の西側に今でも建っています。

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「ハインツ・ソコロヴスキーさん48歳は東から西への逃亡が発覚され東ドイツの刑務所に7年間収容され、1963年11月25日に処刑された」と記された墓標
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2007年10月08日

欧州鉄道

欧州で国境をまたぐ鉄道の高速化が進んでいます。6月10日からドイツとフランスの超特急が初めて相互乗り入れをしました。6月10日に営業運転を開始したのはドイツ鉄道(DB)のインターシティ−エキスプレス(ICE)とフランス国鉄の(TGV)です。ICEが走るフランクフルト−パリ間は従来6時間10分で走行していたものが、4時間10分に短縮されました。また年末には更にダイヤが改正され3時間49分になります。フランスのTGVが運行するパリーシュツトガルト間は3時間39分で結ばれました。

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ドイツの超特急(ICE)

スイスではドイツ系のスイス人が運転をし、フランス系スイス人が車掌をすると快適な旅行が出来ると言われますが、超特急ではどうでしょう?「ドイツ人は時間に正確、だから運転を任せれば列車は遅れない」と考えがちですが、ドイツの鉄道は結構遅れます。一度遅れると決して遅れを取り戻すような努力はしません。この為に接続するはずの列車に乗り遅れたこともしばしばです。これは日本では新幹線と在来線はレールを別にしていますが、ドイツの場合共通にしている事も原因しているのでないでしょうか?ドイツの列車の旅行は一般に快適です。最近は飛行機でのハイジャック検査が厳しくなっています。今年の6月29日にドイツから帰国する際にフランクフルトからの直行便が取れず、ロンドンのヒースロー経由で帰国しました。たまたまテロがあった日ですが、既にその情報が入っていたと見られ、検査は非常に厳しく参りました。2回も靴を脱がされ、バンドは外させられ、携帯したパソコンの中まで検査という状態でした。こういう厳しい検査のお蔭で事故はなかったのでしょうが、この検査のことを考えると鉄道の旅は快適です。

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昔は無かったベルリン中央駅も工事が進み、本格的に利用されるようになりました。しかしまだ中央駅の近くに刑務所が残るなど、周辺の開発には時間がかかるようです。

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2007年10月01日

アレルギー性疾患

大学で、住居のカビや揮発性有機化合物(VOCs)の研究をしているとアレルギー性疾患に悩む患者さんの相談を受けることがしばしばあります。アレルギーとは抗原として働く物質の注射や摂取により、抗体が生じ、抗原抗体反応を起こす、抗原となった物質に対する生体の反応が起きることを言います。注射のみならず、カビの胞子やダニの糞、死骸、各種の化学物質も原因となります。アレルギーの原因となる抗原物質をアレルゲンと呼んでいます。

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「ヘアスプレーを使用してはいけない、治療中は静粛に、新聞雑誌を持ち込んではいけない」など治療に際しての注意が書かれている。

住居に生えるカビ、新建材に使用される化学物質などもアレルゲンとなります。また最近この被害に遭う人が増えています。喘息、アレルギー性皮膚炎、鼻炎、など国民病とも言われています。花粉症もその一つでしょう。

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坑道内の空気が何故清浄になるかの理由が記されている。

先日南ドイツの巨大な森Schwarzwaldを訪問し、Neubulachという村の昔銀を採掘していたという鉱山を見学してきました。(暇ですね!)現在はぜんそくを中心にアレルギー性疾患の治療所として使用されているとのことです。理由は空気がきれいなのと、相対湿度が高いからだそうですが、結構人気があるそうです。

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坑内の治療所。ここで患者は毛布にくるまり静かに時を過ごす。空気はきわめて清浄である。相対湿度は高い。

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「静粛に」と治療地域には書かれている。

このような治療所はスイスにもあるそうですが、唯それだけの環境なら人工的に再現できるように思えるのですが?この場所が巨大な森の中にあり、森林浴をしつつ保養するというのが、都市生活を離れ、治療に貢献するのかもしれませんね。アレルギー性疾患は日本人特有の病かと思っていましたのに、ドイツにも同様の被害者が多いのに驚きました。アレルギー性疾患の起きにくい住宅の開発に努力しております。

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坑道内には様々な金属が見られる。
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