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2007年11月26日

「ドイツと日本の戦後処理」

日本とドイツの戦後処理方法は全く異なります。日本の子供たち、いや私もそうでしたが、明治維新から後の日本の歴史を勉強しません。それに対し、ドイツの子供たちはナチスドイツの犯罪を教科書で勉強します。

ベルリンの地下鉄に「バイエルン広場(Bayerischerplatz)」という駅があります。昔そこには多くのユダヤ人が住んでいました。そしてナチスの迫害を受けました。この駅を中心にナチス時代に出された法令を中心にした看板が100枚以上掲示されています。

これを読むと時代と共にユダヤ人に対する迫害が厳しくなっていくことが分かります。「歴史と真剣に向き合わなければいけない、そうでなければ現在に盲目になる」という現在のドイツ人の考え方が分かります。バイエルン広場駅近くにあるユダヤ人迫害の法令を時代順に数枚翻訳をつけてお見せします。

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「新しいドイツ自動車倶楽部はユダヤ人の入会を禁止する」1933年10月1日

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「ユダヤ人の芸術品販売業、骨董商は営業の継続を禁止する。4週間以内に廃業を命じる」1935年

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「ユダヤ人の男子は名前の他に「イスラエル」女子は「サラ」とう名を付与しなければいけない」1938年8月17日

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「ユダヤ人の旅券には“J”と押印されなければならない。国外退去を希望しないユダヤ人の旅券は押収される。」1938年10月5日

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「ユダヤ人の貨物自動車運転免許証、車検は無効となり、回収を命ず」1938年12月3日

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「ユダヤ人は転出に当たり、装飾品、高価値の物品を持ち出すことを禁止する」1939年1月16日

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「ユダヤ人は歯科医、歯科技能士、薬剤師、治療士、看護士の職業に就く事を禁止する」1939年1月17日

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「ユダヤ人は夕方8時以降(夏期は9時以降)外出を禁止する」1939年9月1日

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「ユダヤ人は通勤の用以外に公共鉄道を使用する事を禁止する」1941年9月13日
「ユダヤ人に公共鉄道の使用を禁止する」1942年4月24日
「ユダヤ人の自動券売機の使用を禁止する」1942年6月26日

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「ベルリン居住のユダヤ人の大量追放が実施された。」1941年10月18日
「アウシュビッツへの最初の大量搬送が行われた」1942年7月11日

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「パン屋、菓子屋は「ユダヤ人とポーランド人にケーキを販売しない」という看板を出すように命じる」1942年2月14日
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2007年11月19日

ヴォルムス(Worms)

ドイツの町ヴォルムスと言ってもご存じない方が多いでしょう。世界史には時々登場する町ですが、敢えて観光でこの町を訪問しようという人は多くないでしょう。フランクフルトから南に100 kmほどの処にあります。

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ヴォルムスの町は城壁によって囲まれていた。

1122年にこの町でヴォルムスの協約が結ばれています。当時の欧州はキリスト教国家でありました。教会組織が実権を握っていました。聖職者はラテン語を勉強するなど、教養も高かったのです。一方世俗諸侯も存在し、その頂点が皇帝でした。皇帝と教皇との権力争いはあちこちで起き、この協定がヴォルムスで行われたと言われます。またローマ教会に反旗を翻したマルチン・ルターはヴォルムスの勅令によって1521年5月に帝国追放刑にあっています。

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ヴォルムスの町にあるルター記念像

しかしルターは勅令が出されるより前にチユーリンゲンの森で覆面の騎士にさらわれるという形で、守りの堅固なヴァルトブルグ城に連れ去られ、フリードリッヒ王にかくまわれます。ここで、ルターはギリシャ語の聖書を独訳し、グーテンベルグの印刷術を使用して世界に聖書を広めます。

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ヴォルムスの町の大聖堂(ドイツでは珍しいロマネスク様式)Dom St. Peter
(同じ写真がありますので、これと交換してください。)

この町はルターとゆかりが深いことからルター記念像(Lutherdenkmal)、ドイツでも数少ないロマネスク様式の大聖堂Dom St. Peterがあります。またユダヤ人が多く居住していました。最古のユダヤ人墓地もこの町にあります。1076年と記された墓標が残っています。

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ヴォルムスの町に残るユダヤ教会

ルター記念像は彫刻家エルンスト・リーチェル(Ernst Rietschel)によって造られました。ワイマールにあるゲ−テ・シラー像と共に氏の代表作であります。エルンスト・リーチェルの子息がヘルマン・リーチェルで、職人の技であった換気や暖房を学問として体系づけた方でベルリン工科大学教授となり、大学には氏を記念してヘルマン・リーチェル研究所があります。筆者はそこで、1971年〜73年の間客員研究員として在籍させていただき、その間に得た交友関係は大変に得難いものと感謝している次第です。

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ヴォルムスの町にあるユダヤ人墓地
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2007年11月12日

シンケルの建築

2007年9月3日のブログでシンケルが設計したベルリン市庁舎でドイツ外断熱協会創立50周年の記念大会が開催されたことを報告しました。

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劇場(Schauspielhaus)ベルリン市中央ゲンドラーメン市場にあります。シンケルの設計で、1818年〜1821年に建設されました。この建物の両側にドイツの塔、フランスの塔と呼ばれる教会が建っています。

カール・フリードリッヒ・シンケル(Karl Freidrich Schinkel, 1781年〜1841年)はベルリンの郊外ノイルピン(Neuruppin)で生まれ、画家、建築家として特にベルリンに多くの古典的・ゴシックの公共建築物を残しました。

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ベルリン市中央にある教会で、フリードリッヒスヴェルデルシュ教会と呼ばれます。シンケルの設計で、1824年〜1830年で建設されました。

ベルリンはプロシャの首都としてフリードリッヒU世(1712年〜1786年)の力により確固たるものとなりましたが、その後のベルリンの顔となる建築を次々に残しました。ベルリンにはシンケルの博物館もあります。

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古い博物館(Altes Museum)と呼ばれる建物です。ベルリン中央のLustgartenにあります。シンケルの設計で、1823年〜1828年に建設されました。

氏の建築はギリシャ建築の精巧なる模倣と言ってしまえばそれまででしょうが、ギリシャ建築にはないドイツのシンボル「鷲」を配したり様々な工夫がなされています。ベルリンの町に重厚さを与えたのがシンケルの建築と言って差し支えないでしょう。

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新監視所(Neue Wache)と呼ばれ、ウンターデンリンデンの4番地にあります。無名戦士の追悼碑にもなっており、旧東独時代はここで、衛兵の交代が行われました。シンケルの設計で、1816年〜1818年に建設されました。

1973年12月にベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所での滞在を終え帰国する際にエスドルン教授他研究所のスタッフが全員でシンケルとベルリンの本を贈呈してくださり、署名を頂きました。何よりの宝として現在も大切にしています。

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ベルリンとポツダムの境界にあるグリニッケ城(Schlos Glienicke)1825年〜1827年にシンケルの設計により建設された。フリードリッヒV世の夏の館として使用された。近くにポツダムと西ベルリンを結んだグルニッケ橋がある。冷戦時代はここで、東側と西側の捕虜の交換も行われ、最も緊張した橋であった。

その時プロッツ教授がシンケルは自分と一緒のノイルピン出身であることを打ち明けてくれました。それは旧東独で当時は訪問が不可能でした。

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シンケル設計によるグリニッケ城(1825年〜1827年)

プロッツ教授は当時から東独は長くは持たないという持論で、東西ドイツが統合されたら小生を案内すると約束してくれました。「不渡り手形」かとも思いましたが、実際に実現、いまから8年ほど前にプロッツ教授にシンケルの生家と教授の生家を案内していただきました。

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シンケル設計によるグリニッケ橋
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2007年11月05日

ダルムシュタット

平成19年7月16日のブログでダルムシュタット(Darmstadt)のフンデルトヴァッサーハウスをご紹介いたしました。この町はフランクフルトから南へ40 km程度の処にあり、高架鉄道S-Bahnで行っても40分ほどで着いてしまいます。

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ペーター・ベーレンスが設計したベーレンスハウス

この町には工科大学があり、ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所で1971年から1973年の間、師事致しましたエスドルン教授(Prof. Horst Esdorn)も、その前任者のライス教授(Prof. Wilhelm Raiß)もダルムシュタット工科大学出身でした。

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オルブリヒ設計の結婚記念塔

という事で、何となく憧れていた町でしたが、ここはヘッセン・ダルムシュタット大公国の首都であっただけに立派な建物が残っています。最後の大公エルンスト・ルードヴィッヒ(Ernst Ludwig)が芸術家を擁護し芸術家の村を造ろうとしました。これは19世紀末から20世紀初頭にかけての事でした。


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華麗な建築「オルブリヒハウス」

芸術村の中心地はマチルダの丘(Mathildenhöhe)でここに来るとユーゼフ・マリア・オルブリヒがルードヴィッヒ大公とマチルダ妃の結婚を祝して1908年に建造した結婚記念塔やペーター・ベーレンスが設計したベーレンスハウス、オルブリヒが設計したオルブリハウスなどを見ることが出来ます。

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19世紀末に建造されたベノイ設計のロシア教会

これはユーゲントシュティール(Jugendstil)に分類されます。ユーゲントシュティールはフランス語ではアール・ヌーボーと言います。我が国ではフランス語の方が一般的かも知れませんね。これ以外にもマチルダの丘ではロシア教会が有名です。
これだけユーゲントシュティールの建築がかたまって残っている場所も他になく、興味深い場所と申せましょう。

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休憩所
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