2010年8月に「建築家ブルーノ・タウト 人とその時代,建築,工芸のご紹介」を上梓しました。購入はこちらからお申込み下さい。 トップページには最新の記事が表示されます。最新5件の記事はメニューの一番上「最近の記事」に記載されています。それ以前の記事は「月ごとの記事」「カテゴリ」等でご覧下さい。

2007年12月31日

ドレースデン その2

小生が1971年−1973年に学んだベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所は暖房や換気を学問として体系づけたヘルマン・リーチェルを記念して作られた研究所です。ヘルマン・リーチェルも有名な彫刻家エルンスト・リーチェルの子息としてデレースデンに生まれ、ドレースデンで育ちました。エルンスト・リーチェルはワイマールのゲーテ・シラー像やヴォルムスのルッター像の作者として有名ですが、出身地のドレースデンのエルベ河畔に氏自身の胸像があります。

no49_7.jpg
エルベ河畔の彫刻家エルンスト・リーチェルの胸像

少し専門的になりますが、冷凍機の設計などで用いられるモリエー線図のモリエーもドレースデン工科大学の教授でした。中央駅も最近立派に復旧しましたが、少し中心をはずれると復興が遅れている街区も目に付きます。

no49_8.jpg
エルベ河を行く観光船

ドレースデンが栄えたのもウィーンに近く、ハプスブルグ家の影響が強かったからと言われています。アングロサクソンは民族大移動の時にこのザクセンから移動していったとも言われています。

no49_9.jpg
ドレースデンのオペラ座

第二次大戦でドイツがお手上げになり終戦間際に英国が民間人も差別なくドレースデンを攻撃したのも人種が近いほど憎しみも増すという説もあります。

no49_10.jpg
ドレースデンの見張り所(Wache)衛兵がいたそうです。現在はカフェーになっています。この建物はベルリンで活躍した建築家シンケルの作品です。
posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 街並み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月24日

ドレースデン その1

ドレースデンはザクセン州の州都です。つい先日同州のミルブラット首相(Prof. Dr. Georg Milbradt)が来日され、2007年10月2日にお話をする光栄に浴しました。地球環境問題と新エネルギー利用に造詣が深く、しかしさらに建物の斷熱による省エネルギーが一番効果的であると言うことを強調されました。

no49_1.jpg
再建なった聖母教会

ドレースデンは旧東独で第二次大戦の戦災復旧が遅れていましたが、統一後は重点的に復旧工事が行われ、再びエルベ河のフローレンスとして美しい姿を現しています。Frauenkircheという聖母教会は英国軍により徹底的な破壊を受け長い間教会外壁の破片が黒くなって現場に積み上げられた状態でした。

no49_2.jpg
エルベ河畔のドレースデン。一番高い建物が世紀のパズルと言われ、再建なった聖母教会

これが世紀のパズルと呼ばれ、どの破片とどの破片が繋がるという気の遠くなるようなジクソーパズルにより、番号が付けられ、2005年に元の姿に戻りました。ドイツ人の根気と執念には脱帽いたします。

no49_3.jpg
ザクセンの君主が住んだツヴィンガー宮殿(Zwinger)

ツヴィンガー宮殿は後期バロック建築として歴代の君主が集めたコレクションを見ることが出来ます。特にアオグスト強王が1717年に作った陶磁器の博物館は有名です。アオグスト強王は東洋の白磁にあこがれ、これをザクセンでも作るようにしました。これがマイセン陶器です。

no49_4.jpg
Zwinger宮殿

ツヴィンガー宮殿の陶磁器博物館には伊万里や九谷のコーナーもあり、多くの日本の陶磁器が陳列されています。町の中では君主の行列が描かれた壁画も有名です。

no49_5.jpg
Zwinger宮殿中庭

no49_6.jpg
君主の行列を描く壁画

posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 街並み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月17日

ヘルマン・ムテジウス(Hermann Muthesius)

ヘルマン・ムテジウス(Hermann Muthesius, 1861年−1927年)はグロースノイハウゼン(Gros- Neuhausen)というエアフルトの近くの町で左官を中心とする建設業を営む家に生まれました。エアフルトは宗教改革を実行したマルチン・ルッターが活躍した所でもあります。

vol48_1.jpg
ベルリンのFreudenbergにあるニコラスホーフという館は1906年−1907年の間にムテジウスの設計の元に建設され1974−1975年の間にKlammt社により修理保全が行われたという看板が出ている。

幼少にして牧師の教育を受け、建築の道を進みます。ベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学で芸術史を専攻した後工科大学へ移り本格的に建築の勉強をします。1887年に卒業後ベルリンの帝国議会を設計したパウル・バロット(Paul Wallot)の事務所に勤務し、バロットの影響を受けます。

vol48_2.jpg
ベルリンのニコラスホーフと呼ぶ館(ムテジウス設計)

その後エンデ・ベックマン(Ende Bockmann)の事務所に勤務し、同事務所が請け負った東京の丸の内官庁集中工事に従事するため3年ほど来日します。法務省の赤煉瓦棟は有名ですが、その暖房工事をヘルマン・リーチェル(Hermann Rietschel)が受けています。その間にも個人としてプロテスタントの教会を日本で設計しています。

vol48_3.jpg
Haus de Burletと呼ばれる小住宅でベルリンのSchlickwegにあります。ムテジウスの設計です。

1896年−1903年の間、プロシャの官吏としてロンドン大使館に勤務し、英国の住宅や「芸術と工業」の影響を受けます。英国の家 “Das englische Haus” を1904年に出版して有名になり、著書は500冊になります。1907年ドイツ産業の振興を目的としたドイツ工作連盟を設立します。ムテジウスはプロテスタントの影響か、規格を尊重し、台頭してきた自由主義の建築ユーゲンドシュティール(Jugendstil:日本ではアールヌーボーの方が通りがよい)の建築家と論争を繰り広げます。

vol48_4.jpg
ベルリンのPacellialleeにあるHuas Cramerと呼ばれるムテジウス設計の館です。

ここの今もベルリンに残るムテジウスの住宅を紹介します。大きな英国の牧歌調民家が思い浮かばれます。余談になりますが、小生が1971年−1973年までベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所にいた時代に同室の助手がムテジウスが設計した家を購入したことがありました。大分痛んでいましたが、大きな家だったのに驚きました。大学の助手がこんな立派な家を購入できることにも驚きましたが、夫人は大きな家の管理(家事労働)に困惑し、離婚してしまいました。その後本人と小生との音信も途絶え、残念に思っています。

ムテジウスが1906年−1907年に設計した自邸です。ベルリンのPotsdamer Chausseeにあります。緑が豊富で写真撮影に苦労しました。
vol48_5.jpg
vol48_6.jpg
posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月10日

バイエルンの衣装

ミュンヘンを州都とするバイエルン州。かつては農業が盛んでしたが、BMWの自動車やジーメンスなどの会社があり、工業が盛んになっています。

vol47_1.jpg
バイエルン衣装

12世紀以来バイエルン王国があり、宮廷文化を築づいてきました。そして他の州とは異なるバイエルン衣装が好んで着用されます。

vol47_2.jpg
バイエルン衣装

ドイツの他のどの地より特徴があります。白と青がバイエルンのシンボルです。大変清楚な感じがします。ここではショーウインドーに飾られたバイエルン衣装をご紹介します。かつてはドイツは夕方5時になると店を閉めました。

vol47_3.jpg
バイエルン衣装


また日曜はすべて休業でした。しかし最近EUになってから他国に合わせ開店時間も長くなりました。営業時間が短かった時代はウインドーショッピングと呼び夜中にショーウインドーをきれいに飾り、お客に品定めをしてもらい、昼間に販売するという手法を採っていました。

vol47_4.jpg
バイエルンの子供服

現在もそのなごりがあり、ショーウインドーはきれいにプレゼンテーションされています。

vol47_5.jpg
vol47_6.jpg
posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月03日

ザクセンハウゼン(Sachsenhausen)

我が国では「日本軍の関与により沖縄で集団自決があった」という記述ですら教科書から抹殺されそうになりました。ドイツと日本の戦後処理の相違がいろいろ言われています。
ドイツではベルリンの繁華街にかつて存在したユダヤ人強制収容所の地名を記し、「この事実を決して忘れてはいけない」と書かれています。

no50_1.jpg
ベルリンの繁華街に立つかって強制収容所があった場所を示す看板。下から5つめにザクセンハウゼン(Sachsenhausen)の地名がある。

ドイツにも右翼はいますが、この看板にペンキが吹きかけられたなどと言うこともありません。この看板にSachsenhausen(ザクセンハウゼン)という地名が見られます。これはベルリンの中心から北々西約40 kmの所にあり、郊外電車で行くことも出来ます。
ベルリンに一番近い強制収容所です。かつての収容所そのままに保存され、見学者を受け入れています。特に教員に引率され見学に来る高校生グループもいます。

no50_2.jpg
ザクセンハウゼンの強制収容所入り口にはアウシュヴィツ強制収容所と同様に「労働は自由を与える “Arbeit macht Frei”」と書かれている。

ドイツは戦争の被害を受けたと同時に仕掛け人でもあったことを永遠に忘れてはいけないという意志でこのような施設が公開されています。

no50_3.jpg
ザクセンハウゼンの強制収容所、収容者の集団トイレ
no50_4.jpg
収容者の服、収容者番号が記されている。
no50_5.jpg
ザクセンハウゼン強制収容所の寝室

ドイツの教科書も戦争の記述、特にナチスの蛮行に関する記述は実に詳しく書かれています。ドイツは近隣諸国と上手な付き合いが行われているのに対し、我が国はぎくしゃくした対応が続いています。

no50_6.jpg
当時の処刑法が描かれたパネル

no50_7.jpg
当時の政治犯の独房

no50_8.jpg
収容所における死体処理場
posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。