ヘルマン・ムテジウス(Hermann Muthesius, 1861年−1927年)はグロースノイハウゼン(Gros- Neuhausen)というエアフルトの近くの町で左官を中心とする建設業を営む家に生まれました。エアフルトは宗教改革を実行したマルチン・ルッターが活躍した所でもあります。

ベルリンのFreudenbergにあるニコラスホーフという館は1906年−1907年の間にムテジウスの設計の元に建設され1974−1975年の間にKlammt社により修理保全が行われたという看板が出ている。
幼少にして牧師の教育を受け、建築の道を進みます。ベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学で芸術史を専攻した後工科大学へ移り本格的に建築の勉強をします。1887年に卒業後ベルリンの帝国議会を設計したパウル・バロット(Paul Wallot)の事務所に勤務し、バロットの影響を受けます。

ベルリンのニコラスホーフと呼ぶ館(ムテジウス設計)
その後エンデ・ベックマン(Ende Bockmann)の事務所に勤務し、同事務所が請け負った東京の丸の内官庁集中工事に従事するため3年ほど来日します。法務省の赤煉瓦棟は有名ですが、その暖房工事をヘルマン・リーチェル(Hermann Rietschel)が受けています。その間にも個人としてプロテスタントの教会を日本で設計しています。

Haus de Burletと呼ばれる小住宅でベルリンのSchlickwegにあります。ムテジウスの設計です。
1896年−1903年の間、プロシャの官吏としてロンドン大使館に勤務し、英国の住宅や「芸術と工業」の影響を受けます。英国の家 “Das englische Haus” を1904年に出版して有名になり、著書は500冊になります。1907年ドイツ産業の振興を目的としたドイツ工作連盟を設立します。ムテジウスはプロテスタントの影響か、規格を尊重し、台頭してきた自由主義の建築ユーゲンドシュティール(Jugendstil:日本ではアールヌーボーの方が通りがよい)の建築家と論争を繰り広げます。

ベルリンのPacellialleeにあるHuas Cramerと呼ばれるムテジウス設計の館です。
ここの今もベルリンに残るムテジウスの住宅を紹介します。大きな英国の牧歌調民家が思い浮かばれます。余談になりますが、小生が1971年−1973年までベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所にいた時代に同室の助手がムテジウスが設計した家を購入したことがありました。大分痛んでいましたが、大きな家だったのに驚きました。大学の助手がこんな立派な家を購入できることにも驚きましたが、夫人は大きな家の管理(家事労働)に困惑し、離婚してしまいました。その後本人と小生との音信も途絶え、残念に思っています。
ムテジウスが1906年−1907年に設計した自邸です。ベルリンのPotsdamer Chausseeにあります。緑が豊富で写真撮影に苦労しました。

posted by 田中の住居学 at 00:00|
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