兄ブルーノは兵役を拒否し、暖炉の製造工場で勤務しますが、マックスは1914年から18年の間兵役に服しています。1923年にはベルリン市のクロイツベルク(Kreuzberg)地区にドイツ印刷連盟の建物を設計し、内部の彩色は兄譲りのものでした。兄ブルーノが1938年トルコのイスタンブールで死去するやトルコへ渡り、兄の仕事の後始末をします。

ベルリン市ミッテ地区Michaelkirchplatz/ Engeldammに建つ旧労働組合連合会の建物。1927−30年に、Bruno Taut, Franz Hoffmann、 Max Tautが設計。発注者はドイツ交通連盟。1930年から労働組合連合会になった。当初の計画はBruno TautとHoffmannによって行われ、平面的にはほぼ4角形で中庭を持つ。5階建で各階のリザリト(建物前面の突出部)がある。施工実施に当たりMax Tautが設計の変更を行い隅角部に丸みを持たせた。Maxはスパンを鉄筋コンクリートに経済的な物に変更している。会議室には「団結は新しい力を創造する」というレリーフがあったが1945年に破壊されている。
1944年までベルリンのEichenkampというブルーノとマックスの住宅の作品がある場所に住んでいましたが、第2次大戦でこの住宅が焼失するや夫人の出身地であるベルリン郊外のコリーンに移住し、ここからベルリンに通います。1945年にはベルリン芸術大学の建築の教授に就任します。1967年にベルリンで亡くなり、夫人の出身地コリーンの修道院内に埋葬されました。

労働組合の事務所建築
Berlin 市Mitte地区のWallstr.61-65, Inselstr. 6, Markisches Ufer 32-34に建ちMax Taut, Franz Hoffmann, Walter Wurzbachの設計。Wallstr.とInselstr.並びにUferstr.に囲まれた土地に建つ。RC造の典型的事務所建築といえる。外の柱間隔がそのままスパン間隔になり事務室を形成している。窓枠を始め様々な色彩が用いられている。7階にペントハウスが、建物の下を地下鉄が走る。

旧ドイツ帝国鉱山労働者共済組合(Reichsknappschaftshaus)、Berlin市 Wilmersdorf地区Breitenbachplatz 2にある。, 1929-30年に設計され、設計者はMax Taut とFranz Hoffmannである。L字型をし、3階建。ガラスを多用し、中から外の眺めを良くした。鉄骨の上に陶磁器の茶紫の外装を施した。第二次大戦で激しく破壊されたが、再建。現在はベルリン自由大學の建物になっている。

旧ドイツ帝国鉱山労働者共済組合(Reichsknappschaftshaus)建物の2つの建物を繋げる階段が美しく、Max Tautの得意技である。

Berlin市Kreuzberg地区のOranienplatzに建つ消費協同組合の百貨店。1932年にMax Tautの設計により建設されたが、百貨店としては数年しか使われず、事務所に転用された。L字型をし、5階と9階建。窓が多く、貝殻石灰岩板で外装を行う。1階の柱は細い。入り口にはMax Taut Hausと書かれている。

Berlin市の Lichtenberg地区の Noldnerplatz, Schlichtallee, Fischerstr.に建つ。Max Tautがコンペで残した作品で1927,1929-32に建設された。小・中学校、職業学校、教育と文化センターなどがある。図書館、会議室もある。Max Taut Schuleの看板もあり、Max Tautも兄Bruno Taut同様に敬愛された建築家であったことが分かる。

校庭には"Max Taut Schule" (マックス・タウト学校)の看板もある。
posted by 田中の住居学 at 00:00|
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建築家ブルーノ・タウト
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