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2008年11月24日

ブルーノ・タウト旧宅2

この住宅はドイツの歴史的建築物保護の指定は受けていますが、旧東独、ブランデンブルグ州にあります。この州都はポツダムでポツダムはお城も沢山あり、まず観光に役立つポツダムの修復に予算が行ってしまい、タウト旧宅のように個人住宅には資金が回ってこないそうです。

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タウト旧宅のある村の駅Dahlewitzです。旧東ドイツの復興はまず観光資源になる所から。公共鉄道の駅舎ですら、まだ割れたガラス窓にはベニア板が貼られたままです。

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タウト旧宅の平屋根も相当に傷んでおり、コンクリートの小片が自然に落ちてくる状態です。

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外壁も相当に傷んでいます。




かつ住人のディプナー夫人は年金生活者で、この住宅の維持に資金を使い果たし、もうお金が無いとの事でした。私にどうにかならないかと修理保全を依頼されている状態です。

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外壁下部の損傷も進んでいます。

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窓周りの損傷も進んでいます。

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バルコニー下の損傷も進んでいます。
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2008年11月17日

ブルーノ・タウト旧宅1

ブルーノ・タウトは1880年、東プロシャの首都ケーニスベルクで生まれました。建築学を学び、1921年マクデブルグ市の建築技師になりました。鉄のモニュメント、ガラスの家など表現主義の建築を発表し、有名になりました。

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Dahlewitzに残るタウト旧宅。道に面してはチャコールグレーに塗られた半円形の面が見える。

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半円形の反対側は四角で平面は円を1/4に切ったような形です。



第一次大戦でドイツが敗戦国となり、工業化により、賠償金を払おうとすると、犠牲者は都市に集まる労働者でした。労働者住宅は監獄のようであったと言われます。これではいけないと、タウトは1924年にベルリン住宅供給公社(GEHAG)の技師となり労働者に健康を配慮した住宅を設計することに励みます。そして社会主義建築家として認められます。それが為に台頭してきたナチス政権ににらまれることとなり、1933年上野伊三郎の招きにより、日本へ亡命のような形でやってきます。

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建物はドイツ文化財保護の指定を受けています。

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内部の階段はガラスブロックが奥に見え、初期の出世作「ガラスの家」を思わせます。



日本では設計の仕事が出来なかったので、建築家の休暇と称して高崎の少林山達磨寺の洗心亭にこもり「日本美の再発見」、「日本文化私観」「日本・タウトの日記」などを著します。1936年にトルコへ行くのですが、そこで1938年に客死します。タウトが自から設計し、来日するまで住んでいた住宅がベルリンの郊外ダーレビッツ(Dahlewitz)に残っています。この住宅についてタウトは「ある住宅“Einwohnhaus”」という本を著しているくらいです。タウト設計の独立住宅は少なく貴重な作品ですが、1926年から27年にかけて作られ現在相当に傷んでいます。

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これは平成20年7月17日付日本経済新聞朝刊の文化欄に紹介された写真です。ブルーノ・タウト脱出後この部屋は一旦白く塗り替えられましたが、現在の住人によりタウトが住んでいた時と同じ色に塗り替えられました。画家である住人はこの色がインスピレーションを起こさせると言います。

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1階の居間です。色使い、段があることなど、ブルーノ・タウトが唯一日本で設計した熱海に残る旧日向別邸とよく似ています。
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2008年11月10日

建築家マックス・タウト2

兄ブルーノは兵役を拒否し、暖炉の製造工場で勤務しますが、マックスは1914年から18年の間兵役に服しています。1923年にはベルリン市のクロイツベルク(Kreuzberg)地区にドイツ印刷連盟の建物を設計し、内部の彩色は兄譲りのものでした。兄ブルーノが1938年トルコのイスタンブールで死去するやトルコへ渡り、兄の仕事の後始末をします。

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ベルリン市ミッテ地区Michaelkirchplatz/ Engeldammに建つ旧労働組合連合会の建物。1927−30年に、Bruno Taut, Franz Hoffmann、 Max Tautが設計。発注者はドイツ交通連盟。1930年から労働組合連合会になった。当初の計画はBruno TautとHoffmannによって行われ、平面的にはほぼ4角形で中庭を持つ。5階建で各階のリザリト(建物前面の突出部)がある。施工実施に当たりMax Tautが設計の変更を行い隅角部に丸みを持たせた。Maxはスパンを鉄筋コンクリートに経済的な物に変更している。会議室には「団結は新しい力を創造する」というレリーフがあったが1945年に破壊されている。



1944年までベルリンのEichenkampというブルーノとマックスの住宅の作品がある場所に住んでいましたが、第2次大戦でこの住宅が焼失するや夫人の出身地であるベルリン郊外のコリーンに移住し、ここからベルリンに通います。1945年にはベルリン芸術大学の建築の教授に就任します。1967年にベルリンで亡くなり、夫人の出身地コリーンの修道院内に埋葬されました。

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労働組合の事務所建築
Berlin 市Mitte地区のWallstr.61-65, Inselstr. 6, Markisches Ufer 32-34に建ちMax Taut, Franz Hoffmann, Walter Wurzbachの設計。Wallstr.とInselstr.並びにUferstr.に囲まれた土地に建つ。RC造の典型的事務所建築といえる。外の柱間隔がそのままスパン間隔になり事務室を形成している。窓枠を始め様々な色彩が用いられている。7階にペントハウスが、建物の下を地下鉄が走る。

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旧ドイツ帝国鉱山労働者共済組合(Reichsknappschaftshaus)、Berlin市 Wilmersdorf地区Breitenbachplatz 2にある。, 1929-30年に設計され、設計者はMax Taut とFranz Hoffmannである。L字型をし、3階建。ガラスを多用し、中から外の眺めを良くした。鉄骨の上に陶磁器の茶紫の外装を施した。第二次大戦で激しく破壊されたが、再建。現在はベルリン自由大學の建物になっている。

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旧ドイツ帝国鉱山労働者共済組合(Reichsknappschaftshaus)建物の2つの建物を繋げる階段が美しく、Max Tautの得意技である。

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Berlin市Kreuzberg地区のOranienplatzに建つ消費協同組合の百貨店。1932年にMax Tautの設計により建設されたが、百貨店としては数年しか使われず、事務所に転用された。L字型をし、5階と9階建。窓が多く、貝殻石灰岩板で外装を行う。1階の柱は細い。入り口にはMax Taut Hausと書かれている。

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Berlin市の Lichtenberg地区の Noldnerplatz, Schlichtallee, Fischerstr.に建つ。Max Tautがコンペで残した作品で1927,1929-32に建設された。小・中学校、職業学校、教育と文化センターなどがある。図書館、会議室もある。Max Taut Schuleの看板もあり、Max Tautも兄Bruno Taut同様に敬愛された建築家であったことが分かる。

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校庭には"Max Taut Schule" (マックス・タウト学校)の看板もある。

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2008年11月03日

建築家マックス・タウト1

マックス・タウトはブルーノ・タウトの実弟で1884年当時の東プロシャの首都ケーニクスブルグで生まれました。長男は夭逝し、次兄のブルーノは1880年生まれですから4歳違いです。

ブルーノ・タウトはナチス政権を逃れて日本にやってきて、ユダヤ人説が流されますが、これを否定する証拠として、実弟マックスが戦前、戦中、戦後とドイツで活躍したことがあげられます。マックスも早くから建築家としての才能を現し、1906年にはミース・ファン・デル・ローエと出会い、ドレースデンの展覧会に出展した独立住宅が金賞を取ったりしています。

1912年には兄ブルーノとオランダ旅行をしています。兄とは良く仕事を共にし、その影響を強く受けます。一方兄はベルリン住宅供給公社の技師として集合住宅を沢山設計していますが、マックスはこれを避け、事務所建築、工場、学校、独立住宅を多数手がけました。1921年にはシカゴの新聞社シカゴ・トリビューン社の高層建築設計コンペに参加しています。

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Max Taut が改修を行ったグリーニッケにある狩りの館(Jagdschloss Glienicke)です。GlienickeとはポツダムとベルリンはWannseeとう湖によって隔てられていますが、その境のベルリン側の地名です。グリーニッケ橋が湖の上に架けられており、これが冷戦時の東と西の国境でした。ここで捕虜の交換も行われました。この館は最初1693年に建築家DieussartによりFriedrich III世の為に建設されました。途中フランス風のバロックが取り入れられたり、改修が行われましたが、Max Tautは1963-64年にガラスの出窓のある張り出し部を作った改装を行いました。現在は一部小学校としても使用されています。

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Max Tautは兄ブルーノ・タウトが健在であった頃は兄が得意とする住宅は避け、事務所建築や、工場、学校を得意として多数設計を行いました。ブルーノ・タウトの死後(1938年逝去)住宅を多く手がけるようになりました。これもその一つで、第二次大戦で敗戦したドイツの建築技術を一気に引き上げようとして行われたベルリン市ハンザフィアテルに建つ集合住宅です。高架電車のBellevueという駅の近くにあります。Hanseatenweg とBartingalleeの角にあり低層住宅(多くは平屋)が並ぶ中にあります。3〜4階建の建物で、隣はデンマークの建築家Kay Fisker設計の住宅です。南北軸の建物で、近くに建つEgon Eiermann, Oscar Niemayrの集合住宅と同じ軸で平行して建っています。全体の調和を考えて設計されました。

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ベルリン市クロイツベルク地域のDudenstr.10番地に建つかっての印刷業組合の建物です。1924−1926年に建設され、Max TautとFranz Hoffmannの設計です。複合建築で、道路に面する集合住宅と背後の5階建の印刷業建物からなります。2つの建物は低層の建物で繋がっています。この結果ほぼ正方形の中庭が存在し、低層建物を設けたことで住宅の日照の悪化を防ぎ、住宅からの眺望の悪化も防いでいます。
住宅は1戸あたりの居住面積は100平方メートルです。各階18戸からなっています。飾り気のない建物です。RC造の簡素さの中に芸術を持ち込んだといえます。

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ベルリン市クロイツベルク地域のDudenstr. 12-20に建っています。Max Taut 1954-1955年の設計です。4階の部分と6階の部分からなり、独立して10階の集合住宅もあります。6階部分はMax Tautが1925年に設計した旧ドイツ印刷業組合の建物に繋がります。4階のRC造の前に1階建半円形の突出した部分があり、町の図書館になっています。この部分が4、6、10階建の異なる住居群を纏める役割を果たしています。光と影の影響をうまく処理、利用しており、旧ドイツ印刷業組合の建物と形状的に似たところがあります。
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