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2009年01月26日

ブルーノ・タウト設計の庭園都市ファルケンベルクその2

2008年(平成20年)7月にブルーノ・タウトがベルリンで設計した4つの住宅団地がユネスコの世界文化遺産に指定されました。タウトはドイツが第一次世界大戦で敗戦国となり労働者の住宅が大変に粗末であったことを気にかけ、1908年にマクデブルクからベルリンに出てきました。そして労働者の健康を考えた集合住宅を多数建設しました。この地域は旧東ベルリンにあり、私がベルリンに滞在した1971年から1973年当時は大変に行きにくかった場所です。ここではファルケンベルクの特徴的な住宅をご紹介いたします。

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ファルケンベルクの住宅です。

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ファルケンベルクの集合住宅です。

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ファルケンベルクの集合住宅です。庭園都市ファルケンベルクと言うだけあって庭園が付いています。

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ファルケンベルクの集合住宅です。

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ファルケンベルクの集合住宅です。

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ファルケンベルクの集合住宅は色彩豊かです。
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2009年01月19日

ブルーノ・タウト設計の庭園都市ファルケンベルク

ベルリンにある庭園都市ファルケンベルク(Falkenberg)はブルーノ・タウトの設計です。2008年7月にタウト設計の他の3つの住宅団地(ジードルング)と共にユネスコの世界文化遺産に指定されました。1912年に第1期工事が始まっていますので、他のジードルングに比べ早い時期に建設されています。住宅自体は簡素化されていますが、その分扉、窓、バルコニー、日射遮蔽のよろい戸などには派手な彩色が施されています。ここではファルケンベルクのいくつかの住宅の玄関扉をご紹介いたします。

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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2009年01月12日

ルッターの町、ヴィッテンベルク(Wittenberg)

宗教改革を行なったマルチン・ルッターの町ヴィッテンベルク(Wittenberg)にはルッターが1517年に「95ヶ条の論題」を叩きつけた城の中の教会シュロスキルヒェ(Schloßkirche)がある。この扉は木製であったが、戦争で消失し、現在はブロンズ製で再建されている。市内には市庁舎やルターが度々説教を行なった聖マリエン市教会がある。

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ヴィッテンベルクの聖マリエン市教会(Stadt Kirche St. Marien)です。ここでルッターが説教を行ないました。

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ヴィッテンベルクの市内にある宗教改革者ルッターの銅像です。


現在世界を支配しているのはWASP(白人でアングロサクソンでかつプロテスタント)と言われるがプロテスタント発祥の地である。ヴィッテンベルク(Wittenberg)は現在正式にはルターシュタットヴィッテンベルク(Lutherstadt Wittenberg:ルターの町ヴィッテンベルク)と呼ばれている。


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聖マリエン市教会です。

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城内教会(Schlosskirche)です。この教会の扉に1571年ルッターは「95ケ条の論題」を叩きつけ宗教改革を行ないました。

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ドイツ鉄道(Bundesbahn:DB)の駅にもルッターの町ヴィッテンベルク(Lutherstadt Wittenberg)と書かれています。

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2009年01月05日

バオハオス教授用の建物郡マイスターハオス(Meisterhaus)

デッサオのグロピウスアレー(Gropius Allee)にBauhausの校舎はある。グロピウスアレーを北に進み、エバートアレー(Ebert Allee)を西に曲がるとこの道の左側に沿ってバオハオスの教授陣の住宅マイスターハオスがある。それぞれ内部が公開されている。

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デッサオのエーバートアレー(Ebert Allee)に沿ってバオハウスの教授陣の宿舎があります。まず校長グロピウスの宿舎から始まります。」

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校長の家とありますが、グロピウスが1925年から26年に欠けて住んだ家です。現在ではこの住宅郡を管理する事務所になっています。

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ハンガリー出身のウィジュアル造型家ナギー(Moholy Nagy, 1895-1946)が1945年に住んだ住宅です。その後建てなおされ画家ファイニンガー(Lyonel Feininger, 1871-1956)も住んだそうです。

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Ebert Allee69/71にある画家キャンデインスキー(Wassily Kandinsky, 1866-1944)、クレー(Paul Kllee, 1879-1940)が住んだ住宅です。

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2009年01月04日

ダムヴェーグの総合学校実験棟“Gemeinschaftsschule am Dammweg, Vesuchspavillon”

この建物はベルリン市ノイケルン(Neukolln)のダムヴェーグ(Dammeg)26番地に建っています。所有者はベルリン市で発注者はベルリン市ノイケルン地区です。建設計画は1927年に始まりました。ワイマール共和国は教育計画にも改革を試み、教育と建築を一体化した考えを打ち出しました。学校教育改革者であったフリッツ・カルゼン博士(Dr. Fritz Karsen)とブルーノ・タウトは将来の学校のモデルとして学生数2000から2500人の総合学校(Gesamtschule)を作りました。最も進歩的な教育を考えるチームであした。労働者の居住地であるノイケルン地区のダムヴェーグにある142,700m2の広大な敷地を校地としました。学校教育の改革とは幼稚園、小学校、中学校、高等学校を一つの教育機関として統合しようとするものでした。そうすることで、幅の広い教育を提供でき、また学生、生徒には個別の対応が出来ることを考えました。校舎は円弧状にし、かつこれを連続させ、それぞれ学年別の教育が分断されないようにしました。そして、前面道路との関係も良くなるようにしました。校舎内の机や椅子も新しい教育方針に沿って作られたそうです。しかし現存する唯一のワイマール共和国の最も重要な学校計画の遺品は「実験ホール」です。この建物は1930年代に一旦学校の管理人の住宅になり、後工場、そして倉庫として使用されました。1998-1999年にベルリン工科大学建築史研究室により、当初のブルーノ・タウトが設計を行ったときと同じ状態に修復されました。正面の大きなガラスの扉と採光を良くするために設けられた、高い位置に設けられた外壁のガラス窓です。

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タンクレド通り(Tankredstr.)の集合住宅です。住棟に5本の煙突を兼ねた柱が外部についています。

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実験ホールを校庭側から見たものです。

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実験ホールを玄関とは裏の方向から見たものです。

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現在この学校はベルリン市の教育・科学研究の事務所と、カール・レギーン学校と呼ぶ職業学校になっています。この看板です。

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