Tautの伴侶Ericaの墓はタウトとエリカの間に1918年10月24日に生まれた娘KlarissaによりBritzのKoppelwegにある墓地に建てられた(タウトの名前はメモリアルで遺骨は埋葬されていない)。

行方が分からないとされたタウトの伴侶エリカの墓は馬蹄形住宅団地のあるブリッツのKoppelwegという道にある市営墓地にありました。

タウトの伴侶エリカの墓はKoppelwegの墓地の一番奥まった所にありました。しかし墓石の前の樅が茂り直ぐには見つけることが出来ませんでした。この写真もドイツ人の友人に左右で引っぱって頂きやっと撮影したものです。エリカは日本から帰国し、収入も無く最後は失明し、1975年にベルリンで亡くなったそうです。
1916年タウトはErica Wittichと知り合い同棲するようになる。1933年Ericaと共に来日。Ericaはベルリンの町を形作った大建築家Karl Friedrich von Schinkelの血を引くという説がある。「日本−タウトの日記」の訳者篠田英雄先生は次のように日記の解説に述べている。
エリカ夫人は、1939年9月に、タウトの遺稿ならびに遺品とデスマスクを携えて、再び日本を訪れた。デスマスクは、高崎におけるタウトの旧居「洗心亭」のすぐ傍の少林寺達磨寺に納められたのである。この年の12月24日に、エリカ夫人と少数の知友とが達磨寺に集まり、住職広瀬大蟲を導師として一周忌の法要を営んだ。その後、日本をも含めて世界の情勢は急速に変転しまた悪化した。ドイツ人であるエリカ夫人にとって、日本はもはや住みよい地ではなくなった。・・・
たぶん46年にアメリカを経て帰国したらしいが、日本のどの知人も、その後の消息を知る事ができずにいる。であるが夫人は既に高齢の筈である。上野氏は、1958年に戦後のベルリンを訪ねたが、マクス・タウト氏ですら、エリカ夫人が東ドイツに居住しているということ以外には何も知るところがなかった。いずれにせよ、この日記と共に、日本に関するタウトの著作原稿は、その保全に忠実であったエリカ夫人のお蔭で、すべてこの国に残されることになったのである。(タウトの日記解説:篠田英雄:昭和50年6月)

エリカの墓の近くにあった人形です。タウトの為に一生懸命尽くしたエリカもタウトの作品ブリッツの集合住宅の近くで波乱に満ちた生涯を終え静かに眠っています。全て世は事も無し

高崎の少林山達磨寺の庵「洗心亭」で過ごしていたブルーノ・タウトと伴侶エリカです。
ブルーノ・タウトは大変な偉人であったが、日本における活動は伴侶エリカの出来すぎる手助け無しには達成できなかったはずである。特に篠田先生が記述されているようにエリカがトルコから苦労をしてタウトの遺品を日本に持ち込まなければ殆どの事が忘れ去られていたであろう。

ブルーノ・タウトと伴侶エリカが過ごした少林寺達磨寺の洗心亭も木造建築で痛みが激しくなりました。2008年に無事改修が終わり、その年の12月24日(タウトの命日、没後70年)に竣工披露が行なわれました。
posted by 田中の住居学 at 00:00|
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建築家ブルーノ・タウト
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