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2009年07月27日

ブルーノ・タウト設計のオリヴァー通り集合住宅

ブルーノ・タウト設計のオリヴァー通り集合住宅“Wohnanlage Olivaerstrase“は、すでにご紹介したシェ−ンラカ−通りの集合住宅“Wohnanalage Schonlankerstrase”に近接して建てられています。ルディ・アルント通り(Rudi-Arndtstrase)とコンラッドブレンケレ通り(Conrad-Blenklestrase)に面して建っており120戸の住戸があります。建築主はGEHAGです。1950年に再建されたもので1990年に道路側のファッサードが修復されました。ルデイ・アルント通り(Rudi-Arndtstrase)に沿った長い敷地しかなく集合住宅の配置計画として苦慮したそうです。この集合住宅が1室半の住居の典型的な例です。1住居の幅が6.6m、奥行きが12mと広くは無い住居です。
ベルリンに良く見られる集合住宅のタイプで住戸の後ろに庭を配しています。19世紀の集合住宅として極めて近代的なものです。


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ルディ・アルント通り(Rudi-Arndtstrase)とコンラッドブレンケレ通り(Conrad-Blenklestrase)の角の外壁です。丁度1階のアジアの食品を販売する商店が入居していました。


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ルディ・アルント通り(Rudi-Arndtstrase)側の集合住宅を中庭側から撮影したものです。



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1926〜1927年にかけ建設された当時としては上級の労働者住宅であったと考えられます。


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2009年07月20日

ブルーノ・タウト設計のグレル通り集合住宅

ブルーノ・タウト設計のグレル通り集合住宅“Wohnanlage Grellstrase“は、プレンツラウアーベルク地区(Prenzlauer Berg)の東北部、環状線のエルンスト・テールマンパルク(Ernst-Thalmann-Park)駅の北200メートルくらいのところにあります。グレル通り(Grellstrase)とリーツエ通り(Rietzestrase)、ホーゼマン通り(Hosemannstrase)に囲まれた敷地に一部はコの字型、L字型、そして一部は曲線を描くような形で細長い集合住宅が広がっています。1927年から1928年にかけて建設されました。これはブルーノ・タウトとフランツ・ホフマン(Franz Hoffmann)との共同設計です。ブルーノ・タウトは1909年にベルリンで共同の設計事務所を開設し、1933年に来日するまで続いていました。152戸の住居があり、建築主はGEHAGです。1970年に補修が行われ、左官工事、塗装が行われました。2001年から2005年にかけ記念建築物保全の修復が行われました。

ベルリンに良く見られる集合住宅のタイプで住戸の後ろに庭を配しています。19世紀の集合住宅として極めて近代的なものです。


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グレル通り側に建つ“コ”の字型住宅の外壁の窓です。どの住宅も窓をうまく飾り、道行く人を楽しませています。


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集合住宅団地の敷地内に入り、“コ“の字のつなぎ部分外壁を撮影したものです。階段室窓枠は赤く、一般の窓枠は緑色に塗装されています。


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グレル通り側に建つ集合住宅の建物内に入り込んだバルコニーを撮影したものです。


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グレル通り(Grellstrase)に面する集合住宅とその中庭を撮影したものです。この集合住宅団地は最初から細長い敷地で、多くの住戸を入れるには条件が悪かったのです。ここに日照も確保しつつ、通風にも配慮して、かつ緑を確保する住宅は位置にタウトは苦慮したそうです。


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2009年07月13日

ブルーノ・タウト設計のオッサー通りの集合住宅

オッサー通りの集合住宅はブルーノ・タウトにより設計され、1927〜1928年に建設されました。オッサー通り(Ossastr.)に面して約170 mと長く建っており、オッサー通りと直交するヴァイヒゼル通り(Weichselstr.)とフルダ通り(Fuldastr.)にも面して平面的には“コ“の字の形で建設されています。ノイ・ケルン地区でもこの周辺は労働者の為の集合住宅建設地としてベルリン市住宅局が所有していた土地に建設されました。単にオッサー通りに面して170mの長い集合住宅を建設したのでは単調になるためにタウトはヴァイヒゼル通り(Weichselstr.)とフルダ通り(Fuldastr.)に集合住宅を曲げて建設し、全体にアクセントを付ける工夫をしました。住宅はどれも1室半(72 m2)、もしくは2室半(98 m2)で、そう広くはありません。

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この集合住宅のゆるいカーブを描く白い外壁です。このような緩いカーブはオンケルトムズヒュッテの集合住宅にも見られるし、ブリッツの馬蹄形住宅も同様で、ブルーノ・タウトの得意技であるようです。


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この集合住宅以外でもあるのですが、建物の隅角部にバルコニーを設置しています。これもブルーノ・タウトの得意技であります。


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この集合住宅を調査していると「この集合住宅は1928年に東ベルリン共同建設会社(Gemeinnutzige Baugesellschaft Berlin-Ost mbH)により建設され、設計者はブルーノ・タウトである」という事を記した看板が見つかりました。


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この住戸の厨房に付けられていた換気窓です。当時は厨房の排気は自然換気によっていたことが分かります。ガラス部分は一重ガラスを二枚使用した構造になっています。

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2009年07月06日

ブルーノ・タウト設計のライネ通りの集合住宅

ライネ通りの集合住宅はブルーノ・タウトにより設計され1925〜1928年にノイ・ケルン地区に建設されました。1期工事は1925〜1926年、2期工事は1927〜1928年に行われました。191戸の住宅があります。4つの道路に囲まれた矩形の土地に”ロ“の字型に建設されています。この付近の区画整理は1980年に計画され、1905年から1914年にかけて実施されました。区画整理された道路の区画に収まるようにこの集合住宅は建設された。ワイマール共和国時代の典型的な都市内勤労者用集合住宅といえます。タウトはこの集合住宅で集合住宅建設の形態と秩序を完成させたとも言われています。1951年に戦災で破壊された部分の再建が行われ、1966年に改修が行われました。この集合住宅はベルリン市内のテンペルホーフ飛行場(Flughafen Tempelhof)に隣接して建設されました。

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この集合住宅の外観です。この建物も5階建てで地下があります。当時の標準と言えます。


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この集合住宅の玄関とその上にある階段室の外観です。


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中庭に立つ子供の遊び場の使用に関する注意を記した看板ですが、ドイツ語とトルコ語で書かれています。事実このノイ・ケルン地区、並びにクロイツベルク地区はトルコ人の労働者が多く住んでいます。


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この集合住宅の中庭側から撮影したものです。ドイツの集合住宅の中庭で多くの場合芝生が植えられ、ここでもドイツ人が好む樅の木が植えられ成長しています。樅の木をドイツ語でタンネ(Tanne)と言いいす。ドイツ人の好む歌で特にクリスマスが来ると歌われるのがO, Tannebaum, O Tannebaum, wie true sind deine Blatter!というものがあります。「モミの木よ、モミの木よ、(冬にも)緑を保つお前の葉は何と誠実な事か!」という歌ですが、わが国でも「モミの木、モミの木・・・」と訳されて歌われています。

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