ベルリンのS-Bahn(郊外電車)グリーネヴァルト駅の北約1 kmの所にアイッヒカンプ住宅地(Siedlung Eichkanp)という集合住宅団地がある。この住宅団地の西は緑の森(Gruenewald)に隣接している。ここではブルーノ・タウトの実弟マックス・タウト(Max Taut)が兄ブルーノ・タウト並びにフランツ・ホッフマン(Franz Hoffmann)と共同設計事務所を設立し、1919年にこの地に人口10000人、1,700戸の住宅団地造成が計画された。しかし第一次世界大戦の影響で、全ては実現しなかった。ここに1925年から1927年にかけて建設が行なわれ、全て個人所有の住宅である。この内ブルーノ・タウトの作品は42住戸あり、独立住宅、もしくは二家族住宅である。1970年代からリフォームが行なわれている。小住宅群の住宅団地で、タウトの作品としては他に例が無く、貴重な作品である。
マックスタウトはZikadenweg55番地に住宅を建て居住したが、1951年に同じ団地内のLarchenwegに新築し、そちらへ転居した。Zikadenweg55番地の住宅はその後マックス・タウトのアトリエとして使用されていた。ブルーノ・タウトと共同で設計事務所を経営したフランツ・ホッフマンもこの住宅団地のZikadenweg70番地に居を構えるなど、アイッヒカンプの住宅団地はタウト兄弟に特別な意味を持っている。

アイッヒカンプの集合住宅

マックス・タウトが当初住居とし、その後アトリエとして使用した住居(Zikadenweg55番地)

外壁の窓にアクセントと配置に考慮を払ったアイッヒカンプの集合住宅です。
ブルーノ・タウトは青春時代をベルリンの郊外、北へ40 kmの地点にある小村コーリン(Chorin)で過ごしている。ブルーノ・タウトは1934年8月27日の日記に次のように記している。「快晴。敏子さんが達磨寺の近辺を案内してくれた。四囲の山々はこれまで見たこともないほどはっきり輪郭を示している、もっと遠方にはこれも山頂まで惜しみなく露わした浅間山の偉容。敏子さんは、浅間山は私の父、榛名山は私の母だという。田舎ばかりで育ったというのに利発な娘さんだ。コリーンの娘達を思い出した。寺の近くには敏子さんだけが心得ているさまざまな小径がある。」(日本・タウトの日記、篠田英雄訳)この敏子さんは当時の少林寺達磨寺の住職廣瀬大蟲住職の長女であり、現在の廣瀬正史住職の伯母にあたる方である。。タウトは1903年から翌年にかけての冬、ここに数週間滞在したことがある。(タウトの日記、篠田英雄註)ここでヴォルガスト(Wollgast)家が営む鍛冶屋があり、かつクロスターシェンケ(Kloster Schanke)と呼ぶ大きな食堂があった。ヴォルガスト家には7人の娘があり、クロスターシェンケに顔を出し快活に振る舞った。そして若者の注目を集めた。コーリンでは芸術を志す若者が集まり芸術論が交わされた。日本人留学生北村がおり、タウトは日本の知識を得た。そしてブルーノ・タウトは3女ヘードヴィック(Hedwig Wollgast:1879〜1968)に思いを寄せるようになり1906年、タウト26歳の時に結婚。弟のMax Taut(1884〜1967)はヘードヴィックの妹マーガレット(Margarete Wollgast)と1914年に結婚している。
タウト兄弟の甥ハンス・カイザー(Hans Kaiser)はヴォルガスト姉妹の妹と結婚し、この住宅に住んでいた。しかし第二次世界大戦で住宅は破壊され、マックスタウトがこの土地を買い取った。
posted by 田中の住居学 at 00:00|
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建築家ブルーノ・タウト
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