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2009年08月31日

ブルーノ・タウト設計のヨハネスタールの低層住宅群

ヨハネスタール(Johannesthal)地区の西通り(Weststr.)に沿って建つ2階建ての低層住宅群です。ヨハネスタールは旧東ベルリンで、東ベルリンの西側に位置します。。かってベルリンの壁が存在したときには壁の反対側が西ベルリンのノイケルン地区でした。最寄の駅は高架鉄道(S-Bahn)のシェーネヴァイデ(Schoneweide)駅です。しかし、この駅から現地に徒歩で行くには相当の時間がかかります。このような土地に住宅を建設したのも田園都市構想に基づくものであったのでしょう。公共交通機関で現地を訪問するにはベルリン市営バスで行くのが良いと思います。GEHAGが1925年から27年にかけて建設し、個人の所有になっています。ブルーノ・タウトの作品は44世帯あり、2世帯住宅、連続住宅からなっています。第二次世界大戦でいくつかの住宅が破壊されました。1995年に記念建築物保護法に基づく改修が行われました。この住宅群はブルーノ・タウトが1919年から始めていた小規模住宅群の最後の作品とも言われています。ブルーノ・タウトはGEHAGの技師としてヨハネスタールの仕事を行い、1925年〜1927年に工事が行われました。後世これはタウトの建築家としての前半期最後の作品とも言われるようになりました。


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西通り(Weststr.)11番、12番の住宅を示します。調査を行ったのが2009年のイースターの祭りの最中でどの住宅にも卵がつるされ、キリストの復活を祝っていました。


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西通り(Weststr.)1番の住宅です。建物にクリンカータイルで帯をつけ、集合住宅という大量生産により安価に建設をしたのですが、住宅ごとに個性を出すことにタウトは配慮しました。


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西通り(Weststr.)の連続住宅です。決して高層住宅ではなく2階建てであります。


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西通り(Weststr.)の連続住宅の裏の庭です。住宅は南を向いていますが、後になって付設の温室が設けられた様子がわかります。付設の温室はパッシブの太陽熱利用で重要な手法ですが、ドイツではこれを冬の庭(Wintergarten)と呼んでいます。


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2009年08月24日

ブルーノ・タウトがベルリンのホーエンシェーンハウゼン(Hoenschönhausen)に設計した住宅群

この住宅群は旧東ベルリンのホーエンシェーンハウゼン地区にある。高架鉄道(S-Bahn)のゲーレンゼン通り駅(Gehrenseestr.)の西約1.5 kmにあります。パウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)を挟んで、北側と南側に住宅は並んでいます。個人の所有で、ブルーノ・タウト設計分としては43世帯分の住宅が建っています。2世帯住宅、独立住宅、そして1棟ではありますが連続住宅もあります。建築主はベルリン市でした。パウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)に広場を設け、住民の交流の場としての利用、お祭りを催すことも可能な広場を設けました。この地区は田園地帯です。住宅と田園の合体、都市にありながら故郷の感覚を住民が享受できるように配慮されました。1926年から1927年にかけて建設が行われました。
これは家畜小屋であった。当時は馬が飼育されていたか、ヤギなどの小動物が飼育されていた。まさにベルリンという都会にあって田園都市の生活を享受するというブルーノ・タウトの理想が表れている。1936年にファッサードの変更が行われた。第二次大戦で7戸の住宅が破壊されたが、1981年に再建され、再度1990年代にリフォームも行われた。


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パウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)の住宅です。外壁は明るい黄土色に塗装されています。まさにベルリンという都会にあって田園都市の生活を享受するというブルーノ・タウトの理想が表れています。


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同じくパウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)の二つの住宅の接合部を示します。この接合部が家畜小屋でした。当時は馬が飼育されていたか、ヤギなどの小動物が飼育されていました。


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同じくパウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)の二つの住宅を示します。ここでは屋根にトップライトが設けられていることが分かります。当時から昼光の有効利用が考えられていました。しかしトップライトは建設工事を失敗すると雨漏りの原因ともなります。


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パウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)がロータリーになっています。そこで、住民の話し合いや野外パーティーや祭りが行われたそうですが、その部分です。写真で芝生の部分が住民交流の場であったのです。敷地の有効利用だけを考慮すればこのような広場は省略されそうですが、タウトは単に住宅を設計するだけではなく、このような住宅団地においても住民の生活はどうあるべきかを考えた人でした。
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2009年08月17日

ブルーノ・タウト設計のフリードリッヒ・エバートの住宅

鹿山国民公園(Volkspark Rehberge)と呼ぶ広い公園に接してフリードリッヒ・エバート(Friedrich Ebert-Siedlung)集合住宅があります。この住宅団地の一方の道は、東郷通り(Togostrase)と呼ばれています。東郷元帥は日露戦争の日本海海戦において、当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を、連合艦隊を率いて一方的に破って世界の注目を集めました。アドミラル・トーゴー(Admiral Togo, 東郷提督)としてその名を広く知られることとなった元帥を記念した通りです。この住宅団地はメベス(Mebes)とエンマリッヒ(Emmerich)の計画で進められていたところにブルーノ・タウトが加わりました。それほど広くない敷地にコンパクトに住棟を納めました。タウトの作品としては珍しく、あたかも日本の住宅団地のように長方形の住棟を平行に配置しています。


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フリードリッヒ・エバート通りの住棟


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東郷元帥を記念した東郷通りの住居番号があるタウト設計の集合住宅


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タウト設計の集合住宅
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2009年08月10日

ブルーノ・タウト設計のノンネンダム通りの住宅

ノンネンダム通りの住宅はブルーノ・タウトとパートナーであったフランツ・ホッフマンとの共同設計です。1911年に建設された比較的古い集合住宅で、現在は個人の所有になっています。典型的な都市型住居で、与えられた敷地に賃貸集合住宅をうまく納めた例と言えます。

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ノンネンダム通りの住宅


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西側の外壁です。


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東側の外壁です。


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内部の階段です。


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外壁の扉を室内側から写しました。
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2009年08月03日

ブルーノ・タウト設計のアイッヒカンプの住宅団地

ベルリンのS-Bahn(郊外電車)グリーネヴァルト駅の北約1 kmの所にアイッヒカンプ住宅地(Siedlung Eichkanp)という集合住宅団地がある。この住宅団地の西は緑の森(Gruenewald)に隣接している。ここではブルーノ・タウトの実弟マックス・タウト(Max Taut)が兄ブルーノ・タウト並びにフランツ・ホッフマン(Franz Hoffmann)と共同設計事務所を設立し、1919年にこの地に人口10000人、1,700戸の住宅団地造成が計画された。しかし第一次世界大戦の影響で、全ては実現しなかった。ここに1925年から1927年にかけて建設が行なわれ、全て個人所有の住宅である。この内ブルーノ・タウトの作品は42住戸あり、独立住宅、もしくは二家族住宅である。1970年代からリフォームが行なわれている。小住宅群の住宅団地で、タウトの作品としては他に例が無く、貴重な作品である。

マックスタウトはZikadenweg55番地に住宅を建て居住したが、1951年に同じ団地内のLarchenwegに新築し、そちらへ転居した。Zikadenweg55番地の住宅はその後マックス・タウトのアトリエとして使用されていた。ブルーノ・タウトと共同で設計事務所を経営したフランツ・ホッフマンもこの住宅団地のZikadenweg70番地に居を構えるなど、アイッヒカンプの住宅団地はタウト兄弟に特別な意味を持っている。


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アイッヒカンプの集合住宅

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マックス・タウトが当初住居とし、その後アトリエとして使用した住居(Zikadenweg55番地)



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外壁の窓にアクセントと配置に考慮を払ったアイッヒカンプの集合住宅です。



ブルーノ・タウトは青春時代をベルリンの郊外、北へ40 kmの地点にある小村コーリン(Chorin)で過ごしている。ブルーノ・タウトは1934年8月27日の日記に次のように記している。「快晴。敏子さんが達磨寺の近辺を案内してくれた。四囲の山々はこれまで見たこともないほどはっきり輪郭を示している、もっと遠方にはこれも山頂まで惜しみなく露わした浅間山の偉容。敏子さんは、浅間山は私の父、榛名山は私の母だという。田舎ばかりで育ったというのに利発な娘さんだ。コリーンの娘達を思い出した。寺の近くには敏子さんだけが心得ているさまざまな小径がある。」(日本・タウトの日記、篠田英雄訳)この敏子さんは当時の少林寺達磨寺の住職廣瀬大蟲住職の長女であり、現在の廣瀬正史住職の伯母にあたる方である。。タウトは1903年から翌年にかけての冬、ここに数週間滞在したことがある。(タウトの日記、篠田英雄註)ここでヴォルガスト(Wollgast)家が営む鍛冶屋があり、かつクロスターシェンケ(Kloster Schanke)と呼ぶ大きな食堂があった。ヴォルガスト家には7人の娘があり、クロスターシェンケに顔を出し快活に振る舞った。そして若者の注目を集めた。コーリンでは芸術を志す若者が集まり芸術論が交わされた。日本人留学生北村がおり、タウトは日本の知識を得た。そしてブルーノ・タウトは3女ヘードヴィック(Hedwig Wollgast:1879〜1968)に思いを寄せるようになり1906年、タウト26歳の時に結婚。弟のMax Taut(1884〜1967)はヘードヴィックの妹マーガレット(Margarete Wollgast)と1914年に結婚している。

タウト兄弟の甥ハンス・カイザー(Hans Kaiser)はヴォルガスト姉妹の妹と結婚し、この住宅に住んでいた。しかし第二次世界大戦で住宅は破壊され、マックスタウトがこの土地を買い取った。



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