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2009年09月28日

アーヘンの町

アーヘンは現在のドイツでは最西部に位置します。ケルンから列車で入るのが一般的ですが、町の数箇所に温泉があり、保養地として有名です。ローマ時代からの温泉地としてフランク族のカール大帝がフランク王国を築き晩年を過ごした歴史的な由緒ある街です。続けてブログにご紹介しましたようにブルーノ・タウトの研究をしています。ドイツ人のブルーノ・タウト研究家としてシュパイデル教授が有名ですが、同教授はこのアーヘンに住みここを拠点としています。そのような事もあり、私はよくアーヘンを訪問します。


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大聖堂は旧市街地の中央にあります。9世紀初頭にカール大帝の礼拝堂として建設されました。16世紀まで神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が行われた由緒ある聖堂です。ゴシックとロマネスクを混合した様式をしており極めて珍しいものです。

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ドイツのどの町に行っても市庁舎の食堂(Ratskeller)で食事をすれば料金もまあまあで、内容も良く間違いがありません。アーヘンのRatskellerは市庁舎に隣接しツーム・ポストヴァーゲン(Zum Postwagen)と呼ばれます。郵便馬車という意味です。1657年創業とのことで、市民でにぎわっていました。

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14世紀に建設されたという市庁舎は大聖堂と広場を挟んで向かい側に建っています。

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アーヘンでは学問の都としてアーヘン工科大学が有名です。いかにも実験が行われているというダクト、配管を建物の外に配置した建築でした。尊敬するシュパイデル教授の研究室も此処にあります。

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アーヘンはカール大帝の町です。大聖堂に隣接する宝物殿ではカール大帝の金色の像が輝いていました。
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2009年09月21日

ベルリン市ミッテ地区に建つ旧労働組合連合会の建物

ブルーノ・タウトはベルリン市ミッテ地区(Mitte)にも商業建築を残している。
当初の設計はブルーノ・タウトとフランズ・ホッフマンであり、1927年から1930年の間に設計された。発注者がドイツ交通連盟であった。1930年から労働者連合会に代わった。平面的にはほぼ四角形で中庭がある。5階建てで各階にリザリト(建物前面の突出部)がある。ブルーノ・タウトは台頭してきたナチス政権から社会主義建築家として睨まれるようになり、日本への脱出を図る。そのことにより、途中から実弟のマックス。タウトが設計を担当して仕上ている。当初直角であった隅角部にマックス・タウトは丸みをつけている。マックスはスパンを経済的に計算し、現在の物に変更している。このビルはミカエル教会広場(Michaelkirchplatz)とエンゲルダム通り(Engeldamm)の交点に建っている。この建物に隣接するミカエル教会は都心にある。ミッテ地区は旧東ベルリンにあったため、当時の教会運営は非常に大変であった。統一後は都心にある教会として多くの礼拝者を集めている。



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ベルリン市ミッテ地区に残るブルーノ・タウトが手がけた商業建築


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タウト設計の商業建築に隣接して建つミカエル教会
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2009年09月14日

ブルーノ・タウトの設計した商業建築

ブルーノ・タウトは1920年代に多くの勤労者向け集合住宅を設計した建築家として紹介を行ってきた。しかし数は多くないものの商業建築も設計している。ここに2つの商業建築を紹介する。
1. コトブサーダム2〜3番地(Kottbusser Damm)の賃貸・商業建築
この商業建築はベルリン市ノイケルン(Neukölln)地区コトブサーダム2〜3番地にある。1910年から1911年にかけて建設された。地下鉄(U-Bahn)のシェーンライン通り駅(Schönleinstr.)の直前にある。主に平面計画は建築家アルテウ―ル・フォクト(Arthur Vogdt)により実施され、ブルーノ・タウトはファッサードの設計を行っている。建物は個人の所有で1909年から1910年の間に建設された。所有者はアルテウール・フォクトであった。この建物の中に映画館があり、この内装はタウトが行なった。しかし戦災後この映画館は無くなっている。タウトは賃貸建築の価値を上げることに腐心した。古い建築法規に拘束される事を嫌い、張り出し窓、外に出ない屋根付バルコニー、一般バルコニーを設け、ファッサードに工夫を凝らした。さらに彩色により、特徴を持たせ、建物に投機の価値を持たせた。19世紀の伝統的なファッサードとは異なり、ダイナミックなファッサードを実現した。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けたが1977年から1978年にかけてファッサードは以前と同じ状態に復興された。タウトは同じ時期に同じコトブサーダム90番地にもやはりアルテウール・フォクトの依頼により賃貸商業建築を設計している。

2. コトブサーダム90番地のの賃貸・商業建築
この商業建築はベルリン市ノイケルン(Neukölln)地区コトブサーダム90番地にある。1909年から1910年にかけて建設された。やはり張り出し窓、外に出ない屋根付バルコニー、一般バルコニーを設け、ファッサードに工夫を凝らした。さらに彩色により、特徴を持たせ、建物に投機の価値を持たせた。19世紀の伝統的なファッサードとは異なり、ダイナミックなファッサードを実現した。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けたが1980年にファッサードは以前と同じ状態に歴史的建築物修復法により復興された。



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コトブサーダム2〜3番地の商業建築



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コトブッサーダム90番地の商業建築です
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2009年09月07日

ベルリン・リヒターフェルデ(Lichterfelde)にタウトが設計したライベダンツ(Reibedanz)大邸宅

この住宅は旧西ベルリンリヒターフェルデ(Lichterfelde)地区アドルフ・マルテンス通り(Adolf Martensstr.)14番地に建っています。この大邸宅はベルリンの高架鉄道(S-Bahn)リヒターフェルデ西駅(Lichterfelde-West)の直前に建ち極めて交通の便も良いところにあります。共同設計者はブルーノ・タウトが共同で建築設計事務所を主宰していたフランツ・ホフマン(Franz Hoffmann)です。建築物の彫刻家としてヴィルヘルム・レプゾルド(Wilhelm Repsold)も参加しています。タウトはベルリン郊外で高級住宅が建ち並ぶニコラスゼー(Nikolassee)に1908年から1909年にかけてフラム氏(Flamm)の大邸宅を設計しています。この邸宅は戦災も免れ、残っていましたが1970年に改造され、原型をとどめないようになりました。この大邸宅が話題を呼び、1910年にランベダンツ(Reibedanz)氏から賃貸の大邸宅の設計依頼を受けました。ライベダンツ氏は洗濯業を営み蓄財した人物でした。この大邸宅建設と同じ時期にベルリン市テンペルホーフ(Tempelhof)地区にやはりブルーノ・タウトの設計により水蒸気の洗濯工場を建設しています。フラム大邸宅をモデルにタウトはこの住宅もほぼ立方体で纏めている。かつそこに建築彫刻家を用いて湾曲した建築のモチーフを入れています。これは賃貸の大邸宅として設計され、シンケルの名を冠した建築学校がベルリン西郊に多くの高級住宅を建設しましたが、その方法に倣っています。ベルリンの町を形造った大建築家カ−ル・フリードリッヒ・フォン・シンケル(Karl Friedrich von Schinkel、1781〜1841)をブルーノ・タウトは尊敬していました。内部には多くの賃貸住宅を設け、外部は旧来のベルリン西郊の高級住宅に倣いました。各階床面積は250m2で6室よりなっています。


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この邸宅のアドルフ・マルテンス道り(Adolf Martensstr.)側の外壁です。北側の外壁になります。邸宅の前にはドイツ人が忠実な木として好むもみの木が植えられています。


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庭側、南側の外壁です。ここでは湾曲した外壁の様子が分かります。地上4階建てそして屋根裏部屋があることが分かります。3階の中央にはバルコニーが設けられています。


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東側の外壁です。東側にこの邸宅の入り口玄関があります。


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東側外壁の玄関扉です。鉄製で樹木をモチーフにしたのか、白い飾りが付いています。左に複数の呼び鈴が付いています。この事からこの邸宅には多数の家族が住んでいることが分かります。玄関の上には雨よけの庇がついていますが、かなり凝った模様も施されています。庇の内側は銅板です。
ブルーノ・タウトは沢山の集合住宅を建設し、住宅に困窮したベルリンの労働者の生活と健康に配慮した“社会主義建築家”として知られています。しかし一方で富裕階層からの依頼も拒むことなく大邸宅の設計も行ったのです。
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