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2010年01月25日

ブルーノ・タウトが仕事をしたマクデブルグの町

マクデブルグは旧東独の都市で、ザクセン・アンハルト州の州都です。かっては東方のスラブ人と戦う際の要衝として重要な役割を果たしました。 805年、カール大帝時代の文書に初めてこの名があらわれます。 神聖ローマ帝国初代皇帝オット− 一世が即位前に過ごした街としても知られています。かつてその宮殿が在った場所には、ドイツ最初のゴッシク建築と言われる聖マウリトス大聖堂が建っており、オットー大帝とその妻エドギタの棺が安置されています。 968年に大帝によって司教座が置かれ、以後、大司教の保護の下で大いに栄えました。後にはハンザ同盟の一員となりました。 1301年、ツンフト(同職ギルド)が市政参加を求めて蜂起したが失敗、首謀者が処刑されました。 1524年、宗教改革に際しルター派に転じました。 マクデブルグ大学は初めて創設されたルター派の大学です。 30年戦争で打撃を受け、市長オットー・フォン・ゲーリケが復興に力を尽くしました。 この市長は優れた物理学者でもあり、真空の実験(マクデブルグの半球)を行ったことで知られています。ブルーノ・タウトはこのような町で1921年から24年まで市の建築顧問を行っている。

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マクデブルグは古い町ですから古い建物も多く残っています。これは現在も建築の専門学校として使用されています。


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ドイツで一番古いといわれるゴシックの教会「聖マウリトス大聖堂」


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聖マウリトス教会を横から見た所です。


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マクデブルグ市のヨハネ教会(Jahaneskirche)です。


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マクデブルグ市には新しい建築としてオーストリアの建築家フンデルトヴァッサーが設計したフンデルトヴァッサーハウスがあります。


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フンデルトヴァッサーハウスの塔部分です。


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フンデルトヴァッサーハウス内の売店です。楽しいですね。

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2010年01月18日

ウンターレキシンゲンの教会

タウトは1904-1906年Stuttgartのテオドール・フィッシャー建築事務所に勤務し、修行を行っている。この時に手がけた作品で現存するものがStuttgartの中心部から北東約40kmの郊外ウンターレキシンゲン(Unterrexiengen)に残っている。筆者らは平成21年10月にベルリンでタウト調査を行った後、ウンターレキシンゲンを訪問した。エコ建築家としてStuttgartの郊外エスリンゲン(Esslingen)で活躍している建築家ヴォルフガング・レーナート氏(Wolfgang Lehnert)に車で案内していただいた。この教会は村の教会(Dorfkirche)と呼ばれ決して規模は大きくない。村の教会は常時施錠されていて入れない場合も多い。しかも教会に連絡の取りようも無く、アポイント無しでの訪問である。最悪の場合は外部からの写真撮影だけでも仕方がないとして出かけた。



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タウトが1906年に改修を行ったウンターレキシンゲンの教会


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タウトが改修を行った祭壇



レーナート氏は訪問した日がたまたま土曜日であったことから、「日曜日の礼拝の為に教会関係者がその準備をしているはずでしょう」とたかをくくっていた。案の上、教会に着くと隣接する牧師館で「婦人会」というものが催されていて牧師の夫人に会うことが出来た。来意を告げると、「それははるばる・・・」と歓迎してくれ、自分は「婦人会で手が離せないが間もなくたまたま外出している牧師が帰ってくるはずだから、待っていてください。」とのことであった。秋のいつ降り、いつ止むとも分からない細雨が降り続いていた。少々寒く感じながらも水溜りを避けて教会の外部写真を撮っていると、トックリ首のラクダ色のセーターを着た元気そうな男性が走ってきた。牧師とは黒いガウンを纏った威厳のありそうな人と固定概念を持っていただけに以外であったが、この人がこの教会の牧師でヨッヘン・ヘーゲレ師(Pharrer Jochen Hägele)であった。再度来意を告げると、喜んで教会の鍵を開けて内部を丁寧に案内してくださった。



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祭壇の裏にあるタウトの彫り


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タウトにより改修された信者席


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1695年からある伯爵席の紋章



ヘーゲレ牧師によるとこの教会は歴史のある教会で、歴代の牧師が教会に記録を残しているそうである。それによると教会の母体が出来たのは1441年になるそうであるが、当時の姿がどのようなものであったかは不明である。1627年に大風により鐘が壊れ、これを契機に教会を再建したそうである。後期ルネッサンスの形式で、その後も修理が行われ、1906年の改修がブルーノ・タウトによって行われ、祭壇の裏に、「B.T. 1906」という彫りがあることから、祭壇もタウトにより設計されたと考えられるそうである。牧師は我々に当時の牧師がタウトにこの改修工事に関して送った手紙のコピーを下さった。実に100ページを超えるもので、やはり教会の上部団体から取れる予算がタウトの設計の範囲に入るか、信者席の数、暖房の位置が良いか、パイプオルガンの設置等等に関するものである。タウトは牧師に彩色したスケッチを付けた手紙を送ったようで、牧師はこれに感激し、返書の中で謝辞を述べている。



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タウトが改修を行った際に設置されたパイプオルガン
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2010年01月11日

ベルリン市ブリッツにあるブルーノ・タウト小学校

タウトが多くの集合住宅はブリッツ等、労働者の居住区に多い。タウトと共に来日し、タウトの活動を支えた伴侶エリカの墓もブリッツにある。そして現在ブリッツには設計にタウトが関わっているわけではないが、ブルーノ・タウトの名を冠した「ブルーノ・タウト小学校」がある。筆者はこの学校を訪問し、校長と話をしたことがある。タウトの教育思想を取り入れ、教育をいっているとのことであったが、なにしろ、公立学校である。校舎もできるだけ「タウトの思想を取り入れて設計したが、思うようには行かない・・・・」と校長は理想と現実の乖離を嘆いておられた。


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ブルーノ・タウト小学校外観


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ブルーノ・タウト小学校外観


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ブルーノ・タウト小学校アトリウム(低学年児童の父親が迎えに来ていた)


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ブルーノ・タウト小学校外観


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ブルーノ・タウト小学校・給食の時間


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ブルーノ・タウト小学校低学年遊戯室
posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(0) | 建築家ブルーノ・タウト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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