
「冷戦時代に西ドイツ、西ベルリン間を結んだプロペラ航空機が閉鎖されるテンペルホーフ空港に飾られている」
冷戦が進むとソ連は1948年にベルリンの封鎖を行ないました。すなわちベルリンと旧西ドイツとの間の鉄道、高速道路を事実上閉鎖され、当時200万人いた西ドイツ市民は食糧危機に見舞われました。そこでこれに対抗し、西側は空輸作戦を行い、ドイツ各地から西ベルリンに物資を輸送しました。この拠点となったのがテンペルホーフ飛行場であした。1971〜1973年のベルリン工科大学留学中もよくテンペルホーフ飛行場を使用し、西ドイツ各地に飛んだことがありました。当時はプロペラ機が中心でしたが、飛行場の大きく張り出した屋根の下に機体が入ってきて乗客は雨の際にも濡れることなく乗降ができるようになっていました。
よくテンペルホーフから西ドイツ各地へ飛行機で旅行したのは、当時の西ドイツ政府が航空運賃の半額を補助したのです。そうしないと西ベルリンの人口が自然に減少し、西側が西ベルリンを放棄することにもなりかねなかったからです。当時を記念し西ベルリンと西ドイツを結んだ物資の空輸作戦を「空の橋」“ルフトブリュッケ”と呼び記念碑が飛行場の前に立っています。

冷戦時代米軍が西ドイツと西ベルリン間で行なった大空輸作戦「空の橋」を記念して空港に残る記念碑
この飛行場も現在はベルリンとマインツ、ザールブリッケンを定期航空便が飛んでいるほかは僅かなチャーター機が飛んでいるに過ぎません。街中にあるので、騒音問題から夜間の離着陸が出来ない、維持費がかかりすぎるなどの理由で、2008年10月までに閉鎖されることが決まりました。これで冷戦の生き証人も静かに消え去っていくのでしょう。1971〜1973年ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所の客員研究員としてベルリン滞在中に日本から多くの方が私を訪ねて下さった。そしていつも迎えにいったのがこのテンペルホーフ飛行場でありました。そしてこの飛行場は多くの乗客で常に賑わっていました。人の殆んどいなくなった飛行場に入ると、冷戦のさなかにベルリンで生活をした者にとって、何とも言えない寂しさを感じるものであります。

「冷戦時代は常時多くの乗降客で賑わったテンペルホーフ飛行場も閉鎖を前に閑散としている」