2010年8月に「建築家ブルーノ・タウト 人とその時代,建築,工芸のご紹介」を上梓しました。購入はこちらからお申込み下さい。 トップページには最新の記事が表示されます。最新5件の記事はメニューの一番上「最近の記事」に記載されています。それ以前の記事は「月ごとの記事」「カテゴリ」等でご覧下さい。

2009年10月12日

アーヘンの町「大聖堂に隣接する宝物館 聖母マリア」

聖母マリアはキリストの抱き方が時代により微妙に異なっているそうです。アーヘンの大聖堂に隣接する宝物館で展示されていました。

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2009年05月11日

イースターその2

イースターは毎年日にちが異なります。不思議にイースターが早いと春も早くやってきます。遅い年は春も遅くやってきます。イースターは日本の5月の連休と同じで多くの人は纏まった休みをとり旅行などに行ってしまいます。イースター前後に毎年行われる国際見本市などもこれに伴い毎年開催日が異なります。イースターは永かった冬が去り、春がやってくるというので、キリストの復活を意味する卵を中心ににわとり、うさぎを飾ってお祝いをします。


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イースター(ドイツではオステルン)がクルと各家庭や商店では卵、うさぎ、にわとりをあしらってお祝いの飾りをします。


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村の食堂でもテーブルの上にイースターの飾りをし、春が来たことを祝っていました。


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住宅の外部でも樹木を利用して卵の飾り付けをします。


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ホテルといってもペンションのようなところでよくイースターの飾りが見られます。
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2009年05月04日

イースター(ドイツではオステルン)

春分の後の最初の満月の日の次の日曜日がイースターです。キリストが死後3日目にして甦ったことを記念し、春の自然の甦りを祝うお祭りでキリスト教国では最も重要なお祭りです。この日を前後に多くの人は休暇を取り旅行などに出かけてしまいます。しかし年により日が異なるのが問題で、商用などで出かける場合は注意が必要です。

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「イースターの飾りは復活を意味する卵を中心にうさぎ、にわとりが中心になります。


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にわとりだけの飾りもあります。


2008年は3月23日、2009年は4月12日でしたし、2010年は4月4日です。復活の象徴の卵を食べたり、ペインティングした卵を贈り合ったりして、盛大にお祝をします。なぜかイースターにはうさぎも登場します。商店やホテルのイースターには特別の飾りをしてお祝いをします。


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これも南ドイツのホテルの飾りです。


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これは南ドイツのホテルのイースターの飾りです。


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これも南ドイツのホテルの窓辺の飾りです。
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2009年04月28日

クリストフォロスの訂正

以前このブログで少年の姿をしたキリストを担いでライン河を渡った大男の話を書きました。増水するライン河を少年に無理にせがまれ大男は少年を肩に乗せ渡るのですが、最初は軽かった少年が徐々に重たくなり、河の中で身動きが取れなくなる、それでも頑張って向こう岸へ渡し、大男はそこで息絶える。少年は大男に祝福を与え、十字架を背負って去っていくと言う話でした。


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これは南ドイツのホルツキルヘンのホテルにあるクリストフォロスの壁画です。大男が少年を肩に河を渡っています。


それ以来大男はキリストを渡した人と言う事で、クリストフォロスとして聖人に叙せられたということです。このキリスト教とゲルマン神話の混じった話はライン河に沿ってあちこちに絵が残っています。ケルンの大聖堂にもあります。しかし小生が以前これがクリストフォロスの絵であるとご紹介した絵は間違えていました。既に数名の方からご指摘を頂いておりましたので、改めて最近撮影したクリストフォロスの壁画をご紹介します。


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これはミュンヘンの郊外にある美しい湖キムゼーの畔で見つけたクリストフォロスの壁画です。神話ですから少年(キリスト)もクリストフォロスも様々なものがあります。クリストフォロスの絵は単にライン河畔だけでなく、ドイツのカトリック勢力が強い土地でよく見ることができます。


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これもキムゼーの畔で見つけたクリストフォロスの壁画です。

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2008年10月27日

ワイン通りのブルヴァイラー5:修道院

以前このブログでフランクフルトからマイン河を遡ること約80kmのところにあるミルテンベルク(Miltenberg)という町を紹介したことがあります。ここにも山の上に修道院があり、私が1971年から73年の間留学したベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所の同窓会でこの修道院を訪問したことを書きました。
ブルヴァイラーで鋳鉄製暖炉の博物館を見学し、シュトリンチンガー夫人に礼を述べ、辞去したのは良かったのですが、博物館前のバス停の時刻表を見ると次のバス出発まで1時間30分はありました。いくらでも拡がるワイン畑は見飽きましたし、この村の山の頂にある修道院を訪問することにしました。雰囲気はかってミルテンベルクで訪問したものとそっくりでした。やはりキリストの受難劇が砂岩の彫刻となって修道院まで登っていく道に立っています。

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ブドウ畑の中にある山道に沿って修道院を訪問しました。両端にはキリストの受難劇の彫刻が立っています。

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彫刻の下には綺麗な花が植えられています。


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キリストの受難劇

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彫刻の後ろにワインの武道畑が広がります。

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空は晴れていて初夏の陽気でした。

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これは山頂近くに立つ彫刻です。

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このような彫刻は一体いくつ立っているのでしょうか?勘定するのを忘れました。
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2008年10月20日

ワイン通りのブルヴァイラー4:鋳鉄製暖炉の博物館4

この博物館には単に鋳鉄製暖炉だけでなく当時の暖炉を使用した生活の絵が展示されていました。

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暖炉の装飾もかなり凝っているものがあります。

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暖炉の装飾もかなり凝っているものがあります。

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暖炉の装飾もかなり凝っているものがあります。暖炉の焚き口です。

暖炉があっても部屋の中では厚いオーバーをまとっている絵もありました。当時は必要以上に室温を上げなかったのか、それとも暖炉の焚きはじめで室温は低かったのか、それとも当時の住宅は断熱が不十分で、これくらいの暖炉では十分に室温が上昇しなかったのか、などといろいろ想像をたくましくしました。

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暖炉の装飾もかなり凝っているものがあります。

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暖炉の装飾もかなり凝っているものがあります。暖炉の頂部です。

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暖炉の装飾もかなり凝っているものがあります。暖炉の焚き口です。
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2008年10月06日

ワイン通りのブルヴァイラー2:鋳鉄製暖炉の博物館2

ここの展示は鋳鉄製暖炉の鋳造場所、製造年、寸法も記述されており、素晴らしいものでした。シュトリンチンガー家の努力に敬意を払いつつも、閉鎖の事態に陥ったことにさぞ無念であったことを思いました。
私に対する説明もなにか淋しげな感じがしたものです。

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2008年09月29日

ワイン通りのブルヴァイラー1:鋳鉄製暖炉の博物館1

ブルヴァイラーというまず日本人は訪問しないであろう村に鋳鉄製暖炉の博物館があることを知っていました。これは個人が集めた鋳鉄製暖炉を展示した博物館です。訪問前に所有者のRuth Stritzinger(ルツ・シュトリンチンガー)さんとは予めメールで訪問の許可を得ていました。しかしノイシュタットの街からバスに揺られてワイン畑を抜け、バスの停留所には必ずワインの醸造所があるという風景を約1時間やっとたどり着いたブルヴァイラーのバス停の前にこの博物館はありました。バスを降り博物館に立ちますと驚いたことに「この博物館は閉鎖されました」と書いてあります。「なに、予め連絡を取り日本からわざわざやって来たのに話が違う」と博物館に隣接するシュトリンチンガー家の呼び鈴を押しました。

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ノイシュタットの町に宿泊し、バスに1時間揺られてたどり着いた博物館は「ドイツ暖炉博物館」の看板も下げられていました。確かにメールで訪問を約束してあったのに、これには驚きました。

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でも案内していただくとまだ沢山のアンテイ−ク鋳鉄製暖炉が陳列されていました。

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こんな変わった形の暖炉もありました。暖炉の上に小鳥が留まっています。

すると家の方が出てきて事情を説明してくれました。実はこのような地方で個人博物館を維持するのは大変で、この間に以前から交渉していた博物館展示物の売却が成立し、ドイツのボイラー、放熱器メーカーのV社に展示物の一部が移ったとの事でした。しかし私との約束はそれ以前のことで、当時閉鎖するということは判っていたが言えなかったとの事で、博物館を案内してくださいました。私が最後の訪問者かもしれません。

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平成21年の干支である牛も暖炉の模様に使われていました。たしかにこの付近農家が沢山牛を飼っています。

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これはかってBuderus社の暖房博物館で見たものと同じ形をしています。

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これもアンテイ−クな暖炉です。

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燃焼量を調節できるコックが付いています。
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2008年08月25日

メーデー

2008年5月1日にたまたまノイシュタットという町に宿泊していました。ノイシュタットとはNeustadtと書き“新しい町“を意味します。従ってこれと同名の地名はドイツ各地に存在します。私の宿泊したノイシュタットは他の同名の町と区別するために”ワイン通り近くのノイシュタットNeutadt an der Weinstraße“と呼んでいます。

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ノイシュタットの中心街をはずれるとワイン用ぶどう畠で一杯です。

この付近、一般に平地が殆どのドイツにしては山や岡があります。そして南斜面の山、岡では良質なワイン用のぶどうが取れます。ここに宿泊したのはワイン購入だけが目的でなく、ワイン通りの先にあるブルヴァイラー(Burrweiler)にある鋳鉄製暖炉の博物館を訪問することが目的でした。ブルヴァイラーにはここから路線バスで行くことができます。

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2008年5月1日ノイシュタットの駅前のホテルに泊まっていましたら、急に警官が集まり、ものものしい雰囲気になりました。

しかし5月1日宿泊していた駅前のホテル周辺の雰囲気が急に怪しくなりました。ホテルでは危険だからホテルから出ないでくれとの要請がありました。ホテルの1階は全て防弾ガラスを使用しているので、中にいれば安全であるとの事でした。このときにやはりホテルは少々高くとも安全なホテルに宿泊すべきと思いました。

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5月1日は労働者の祭典、メーデーです。この祭典にネオナチが襲撃するとの噂が広まりました。

メーデー(ドイツ語でマイターク:Mai Tag)は労働者の祭典で、駅前の広場でその祭典が催され、これにネオナチが襲撃をかけるとの情報が入ったとのことで、機動隊も駆けつけ緊張した雰囲気でした。しかし夕方までネオナチの襲撃は無く、無事に夕食のため町に出ることが出来ました。

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機動隊員の中には女性の隊員もおりました。
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2008年08月18日

不吉な数字“17”

日本では4という数字は“死”に繋がるので、不吉な数字といわれます。西欧では13はキリストが処刑された日が13日の金曜日であったことから不吉な数字とされます。さらに17という数字も不吉とされ時々欠番になっています。これはローマ数字で17を書くと“XVII”になります。これを並び替えると”VIXI”というラテン語になり、これは“故”という意味で、死に繋がるからです。

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ベルリンの高級住宅街の降下鉄道駅グリューネヴァルト駅にナチ時代ユダヤ人が集結させられドイツ各地の強制収容所に送られました。

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グリーネヴァルト駅では17番線ホームは永久保存、このようなことがあったことを子孫にも語り継ぎ歴史から抹殺しない努力が行われています。

ナチス政権の時代にベルリンの高級住宅街にあるS- Bahnhof(高架鉄道の駅)グリーネヴァルト駅からユダヤ人がドイツ各地の強制収用所に送られたことをこのブログに書きました。この時も17番ホームから強制収用所行きの列車は出ました。今でもそのホームは使用されず、この恐ろしいことがあったことを歴史から抹殺してはいけないとして保存されています。
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1941年から1945年間ドイツ連邦鉄道の前の組織がユダヤ人を強制収容所に17番線ホームから送った事を書いています。

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これは17番線ホームの見取り図です。

もっとも17がホテルや病院で常に欠番となっているかというとそうでもなく、その日ベルリンの定宿に宿泊したのですが、“良くいらっしゃいました。お待ちしていました”とにっこり笑った女主人から受け取った私の部屋の鍵は17番でした。

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1943年10月29日にベルリンからアウシュビッツに50人のユダヤ人を輸送したと線路に刻印されています。
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2008年06月02日

アンペルマン(信号男)

東西ドイツの合併で法律や多くの規則は旧西ドイツのものが残り、旧東ドイツのものは消滅しました。しかし信号の場合旧東ベルリンは単なる緑・赤でなく、アンペルマン(信号男)と呼ぶ人の形を用い市民から親しまれていました。これが最近西ベルリン側でも採用されるようになっています。さらに昔1965年頃はドイツの信号は緑に相当するものは"Geh(行け)"、"Halt(止まれ)"が用いられていました。ドイツ語を理解しない外国人が交通事故を起こしたことからこれは廃止されました。

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緑の信号を意味するアンペルマン(信号男)

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赤を意味するアンペルマン(信号男)
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2008年05月26日

ノイブラッハ

日本にも留学経験があるドイツ人建築家レーナート(Lehnert)さんに案内されて、黒い森シュバルツヴァルト(Schwarzwald)のノイブラッハ(Neubulach)にある廃坑を訪問した。

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ドイツの黒い森シュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)にノイブラッハという村を建築家レーナート(Lehnert)さんが案内をしてくれました。

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坑内には坑夫の安全を祈って入り口に明かりを持ったマリア像がありました。

廃坑も興味深かったが、村に残る沢山の木造木組み建築も興味深かった。ドイツの黒い森は沢山の材木が取れる。その事からも木造建築が盛んである。

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ノイブラッハの村には木造木組みの建物が沢山残っています。

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これはノイブラッハの昔の町役場だそうです。木造木組みの立派な建築です。

木を建築材料として見た場合製造の段階は森林で成長している段階である。この時、木は地球温暖化ガスの二酸化炭素を吸収している。他の建築材料は鐵にしろ、アルミ、ガラス、セメントにしろ多くの二酸化炭素を排出している。その事からも木を建築に使用することは地球温暖化防止に役立つのである。

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ノイブラッハの観光局のある建物です。

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ノイブラッハにある木造木組みの住宅も改修工事が行われていました。このように適宜改修を行うことで古い建物が長く使用されています。
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2008年05月05日

ホンベルク軍事博物館

ホンベルクにはドイツで唯一と言われる軍事の博物館があります。戦後軍事的なことは全て否定してしまったドイツで珍しい博物館です。もちろん規模は大変小さく常時開放されているのではありません。

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ホンベルクにはドイツで唯一と言われる軍事の博物館があります。200年来のホンベルクにおける軍事史を展示すると書かれています。

町役場に電話をし、見学を申し入れると案内人が来てくれ、鍵を開けてくれます。私も携帯で電話し、見学を申し込みました。「30分くらい待っていてくれ」とのご託宣。

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博物館は大したものではありませんが、周囲は大変綺麗なところでした。

その間に博物館の向かいの家の窓から声がかかり、その家に上げてもらいました。コーヒーまでご馳走になり、ご家族と話をしました。期待しなかった楽しい旅の想い出です。

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軍服の展示がありました。

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海軍の軍服でしょうか?軍旗も展示されていました。

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ナチス時代の軍帽も展示されていました。

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空軍の軍服もありました。

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ナチスドイツの空軍軍服です。

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現在の軍の軍服でしょうか?
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2008年04月21日

ボーマン博物館のカッヘル

カッヘルオフェン(陶製暖炉)のカッヘル(Kachel)とは化粧タイルのことです。これには実に様々な模様があり楽しいものです。宗教がらみのものからその土地の権力者、動物、植物等々。Celleにあるボーマン博物館には様々なKachelofenとKachelの展示があります。

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どなたか高僧の像でしょうか。カッヘルに用いられたものです。

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土地の公爵か名前も入っていますが、良く読めません。カッヘルのデザインです。

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かなり漫画チックに描かれていますがCaroll王と読めます。

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かなり込み入った像が描かれています。

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カッヘルオーフェンの例です。燃焼部は鋳鉄で出来、ここでも馬が空を飛ぶ模様が付いています。上部はカッヘル(Kachel)と呼ばれる化粧レンガで覆われています。陶製なので、熱容量が大きく火が消えてもすぐに室温が下がる事はなかったそうです。このような暖房は温水暖房として発達しました。このKachelにはいろいろのデザインが用いられています。
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2008年04月14日

ホンブルク郷土博物館の鋳鉄製暖炉

ホンブルクの近くにホルツハウゼン(Holzhausen)という村があり、古くから鉄工所がありました。そこで鋳鉄製暖炉が製造されました。ホンブルクの郷土博物館には当時のカタログや製品の展示があります。暖炉の模様が大変凝っているのに感心します。

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Hombergの郷土博物館にはそこの製品や当時のカタログが展示されています。

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ホルツハイゼンの鉄工所で製造された鋳鉄製暖炉がホンベルクの郷土博物館に展示されています。

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ホルツハウゼンの鉄工所で製造された鋳鉄製暖炉に付いていた模様です。

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これもホルツハウゼンで製造された鋳鉄製暖炉の焚き口の扉です。ここにホンベルクの近傍のホルツハウゼン鉄工所と書いてあります。ホルツハウゼンはドイツに良くある地名で、他の場所にもあります。ホンベルクも他にもあり、郷土博物館があるのはHomberg/ Efzeと呼ぶのが正しいのです。

ホルツハウゼンの鉄工所で製造された鋳鉄製暖炉には当時の生活を描いたものも多く見られます。当時はこの地方で羊が多く飼われていたようです。

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ホルツハウゼンの鉄工所で製造された鋳鉄製暖炉の模様。日本の寺院の灯籠や五重塔の相輪に共通するものがあります。
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2008年02月25日

ホンブルク民俗博物館

ホンブルクの民俗博物館はややもすると右翼的色彩の強い展示が行われているのでないかと言う印象を与えてしまったかも分かりません。決してそうではなく、歴史を展示する結果そのような展示もせざるを得なかったというのがSchmittさんの解説でした。一般庶民の生活を紹介する展示もたくさんありました。その一部をここに紹介いたします。

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ホンベルク地方で使用されていた調理用暖炉です。暖房用も兼ねていたようです。

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ホンベルク地方で使用されていた調理用暖炉です。

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ホンブルク地方の厨房用暖炉です。再現されたものです。

107_4.jpgホンベルク地方では鋳鉄製暖炉だけでなく粘土による暖炉も使用されていました。

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ホンブルクが一時衰退したのも水飢饉によるものでした。このような水道の石製導管が発掘されています。
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2008年02月18日

ホンベルクの郷土博物館

ホンベルクの郷土博物館には暖房器具の歴史の展示があると聞いており一度訪問したいと考えていた。ホンベルクの観光局に連絡をしたところ、公開日は少なくかつ予約が必要との事であった。

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Hombergでは鋳造技術も早くからあったようで、鋳鉄の暖炉が多数展示されていた。暖炉は室内装飾品としても使用されたので、興味深い模様も見受けられる。暖炉の扉の模様であるが、天使が鹿を捕らえている。上にHombergと記されている。ゲルマン人は狩猟民族であったのだ。

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ホンベルクの郷土渡博物館では日本で約束した時間と1分も違えることなく説明に来てくださったSchmittさんです。熱っぽく郷土の歴史を2時間にわたり説明してくださいました。

2007年6月23日(土)午後2時を指定し、2時少し前から博物館の前で立っていると正に2時00分担当のシュミット(Schmitt)さんがにこやかに現れ、固い歓迎の握手をしてくださり内容の説明をしてくださった。

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2.65 mの鋳鉄製暖炉にある皇帝ヴィルヘルムT世の像。

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高さ2.65 mの巨大な鋳鉄製暖炉。模様は皇帝ヴィルヘルムT世、皇帝ヴィルヘルムU世を描き、戦勝祈念の暖炉と考えられる。

見学者は小生一人、そのために専門家が丁寧に案内をしてくださる。至福の2時間であった。

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2.65 mの鋳鉄製暖炉にある皇帝ヴィルヘルムU世の像。ヴィルヘルムU世は1888年ヴィルヘルムT世の没後フリードリッヒV世の短い治世を経て1918年に即位。プロイセンを大国にし、ドイツ統一を果たす。

ここでは数ある郷土の展示から暖房器具に的を絞って説明をしたい。ホンベルクに関し、ホンベルクという名前とホンブルクという名が出てきて混乱を与えているようである。ベルク(Berg)は本来「山」を意味する。ブルク(Burg)は城や城塞を意味する。地名としてあるHombergにある城塞がHomburgである。

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2.65mの巨大鋳鉄製暖炉にある先広十字(Tatzenkreuz)。オーストリアやプロシャの将軍がつけた勲章です。このような模様からプロシャの国威掲揚の暖炉であったのでしょう。

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鋳鉄製暖炉の模様にはプロシャ帝国を示す暖炉扉の模様も展示されています。

このような例はフランクフルトからマイン河を80 km程さかのぼるミルテンベルクにも見られる。町の名はMiltenbergであるがそこにある城塞はMiltenburgである。

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この鋳鉄製暖炉の横に立つ像はヘルマンの銅像です。ヘルマンとは9世紀に現在のドイツの土地はローマ人に支配されていたのですが、ローマの将軍ウア−ルスを破ったゲルマンの将軍です。ローマの歴史家タキトウスの著書「ゲルマーニア」に出てくる話で、この本ではヘルマンは「アルミニウス」となっています。「トイトブルグの森の戦い」と記され、最近この森がオスナブリックの北20 km程のところにあるKalkrieseであることが分かりました。
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2008年01月28日

ボーマン博物館における居住環境学展示

私はお茶の水女子大学で居住環境学の講義を平成5年以来していました。居住環境学という名前は当時他の大学にはありませんでした。生活科学部の発足と同時に居住環境学という講義も始まったのです。

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ボーマン博物館ではドイツの昔の生活を示す模型が多数展示されています。居住環境学を専攻していた者にとって大変興味深い展示でした。オランダのタイルが使用された中産階級家庭の厨房です。


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20世紀初頭の厨房です。食器として使用される陶器が立派に成っています。

他の大学の住居学科などではいかにうまく設計を行うか、工事を行うかを主眼に教育と研究が行われます。私の所では家政学部の伝統を継いでいるものですから、居住者の立場で「如何に上手く住むか」という研究・教育を行って参りました。

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これは19世紀末の厨房の模型です。

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19世紀末の厨房です。室内で燃焼が行われ、どの様に排煙を行ったのでしょうか?


もちろん「如何に上手く住むか」と「如何に上手く設計するか」という事は表裏一体の問題です。しかしボーマン博物館を訪問した際に居住環境学の原点はここにあったと感じたものです。

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19世紀末の住宅の居間です。右の隅にあるのがカッヘルオーフェン(Kachelofen)と呼ぶドイツで広く使用された陶製暖炉です。

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19世紀末の住宅の居間です。ここの左隅にあるのがカッヘルオーフェン(Kachelofen)と呼ばれる陶製暖炉です。単なる暖房機だけでなく室内の装飾品も兼ねていました。
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2008年01月21日

ツェレ・ボーマン博物館 生活

ツエレ(Celle)のボーマン博物館はドイツ人の生活について展示を行っています。居住環境学を研究していた小生にとって興味のある展示があります。

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ツエレのボーマン博物館にはドイツの住宅の歴史も展示されています。これは9世紀頃の住宅の模型ですが、木造による柱、梁が主構造でした。日本の住宅造りと共通点が見られます。

現在はRC(鉄筋コンクリート)やレンガ積みの建物が多いドイツでも昔は木造建築が主流であったことが伺われます。太めの柱、梁を使って主構造が作られました。木造はうまく乾燥して使用すれば永久に使用できます。

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後期石器時代の住宅だそうですが、主構造は木造、長さ30 m、幅7 mであったそうです。

セメント、ガラス、鐵、アルミニウム、合成樹脂など多くの建築材料は製造の段階で多量の二酸化炭素を排出します。木の製造の段階は森林で成長している時です。このときには二酸化炭素を吸収して成長しています。

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後期石器時代は既に火が使われました。室内で火を燃焼する事で調理が行われ、採暖も行われました。ここに展示された調理器具はもっと後生のものでしょう。

住宅が不要になっても多くの建築材料は産業廃棄物になりますが木材は燃料にもなり、また次の木材成長のための肥料にもなり循環いたします。

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これも当時の採暖と調理に用いられた暖炉です。
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2008年01月14日

ツェレ・ボーマン博物館 暖炉

ハノーバー(Hannover)の北東約40kmにあるツェレ(Celle)と言う町は中世の面影を残す木造木組みの建物が多く残り好きな町です。ここにはボーマン博物館という素晴らしい博物館があります。

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Celleのお城の前にある馬の像

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Celleの町を飛ぶ馬

特に暖房に関する歴史の展示は素晴らしいと思います。この地方は早くから鉄鋼の技術が発達し、鋳鉄製の暖炉が製造されました。かつては暖房器具が室内の装飾品でもあり、かなり凝った模様がついていました。寒いドイツの冬は暖房器具を中心とした生活が営まれていたのです。

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2つの城の模様と馬(左の下に羊飼いと2頭の羊もみられる)

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Wolfenbuettelの城と飛ぶ馬。WolfenbuettelはBraunschweigの南約15 kmの所にあるお城のある町です

この博物館にも沢山の鋳鉄製暖炉が展示されています。いろいろの模様がありますが、特に馬が町の上を飛んでいる模様が多いのに気がつきます。これら鋳鉄製暖炉は1,700年代に製造されたものが多かったのですが、当時は馬は情報をいち早く伝えるのにも使用されました。また戦争になれば馬で戦いました。従って王様は如何に良い馬を所有するかにかけていました。ボーマン博物館の鋳鉄製暖炉のプレートから馬の模様を紹介します。

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ある町を飛ぶ馬

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英国の王室王冠を持つ馬

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2008年01月07日

クリストフォロス

ドイツの大動脈ライン河に沿っては多くの伝説があります。クリストフォロスは3世紀の人といわれ、ギリシャ語で「キリストを運んだ者」の意味があります。力の強かった少年が一番強い人に仕えようとし、殿様を代えては一生懸命に努力します。最後は一番強い人は十字架を背負ってやってくると聞き、年老いてからもその人を探すべくラインの上流で河渡しになります。それをしていれば一番強い人が十字架を背負ってやって来るであろうという思惑もあったのでしょう。しかしいくら待ってもその人は現れません。ある風の強い水かさも増した夜に小屋で休んでいますと子供が現れ、どうしても今河を渡してくれと頼みます。最初は明日になって水かさが引いたら渡してやると断るのですが、子供はどうしても今渡りたいと請願します。しかたがなく子供を背負いラインを渡るのですが、最初は軽かった子供が河の中央付近に来ると重くなり河渡しは今までなかった汗、いや冷や汗をかきます。それでも子供はますます重くなり、やっと対岸にたどり着くのですが、そこで河渡しは倒れ込みます。子供は十字架で老人に祝福し去っていく、老人は「やっと十字架の人にお会いできた」と感謝し、そこで息絶えたという話です。

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キリストを背負いライン河を渡り、聖人となったクリストフォロスの壁画

キリストから全世界の重みを知らされたということで、クリストフォロスと呼ばれ、14救難聖人の一人とされています。旅の安全の守護神にもなっており、ライン河に沿ってクリストフォロスがキリストを背負っている絵が建物にかかれていることが多いのです。ケルンの大聖堂の中にもあります。愚直と忍耐が好きなゲルマン人に好まれる民話のようですね。マルチン・ルッターが宗教改革をします。ルッターのローマ教会に対する批判はローマ教会が聖クリストフォロスの護摩を売りまいていたとことに対するものであるという話もあります。




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2007年12月10日

バイエルンの衣装

ミュンヘンを州都とするバイエルン州。かつては農業が盛んでしたが、BMWの自動車やジーメンスなどの会社があり、工業が盛んになっています。

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バイエルン衣装

12世紀以来バイエルン王国があり、宮廷文化を築づいてきました。そして他の州とは異なるバイエルン衣装が好んで着用されます。

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バイエルン衣装

ドイツの他のどの地より特徴があります。白と青がバイエルンのシンボルです。大変清楚な感じがします。ここではショーウインドーに飾られたバイエルン衣装をご紹介します。かつてはドイツは夕方5時になると店を閉めました。

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バイエルン衣装


また日曜はすべて休業でした。しかし最近EUになってから他国に合わせ開店時間も長くなりました。営業時間が短かった時代はウインドーショッピングと呼び夜中にショーウインドーをきれいに飾り、お客に品定めをしてもらい、昼間に販売するという手法を採っていました。

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バイエルンの子供服

現在もそのなごりがあり、ショーウインドーはきれいにプレゼンテーションされています。

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2007年12月03日

ザクセンハウゼン(Sachsenhausen)

我が国では「日本軍の関与により沖縄で集団自決があった」という記述ですら教科書から抹殺されそうになりました。ドイツと日本の戦後処理の相違がいろいろ言われています。
ドイツではベルリンの繁華街にかつて存在したユダヤ人強制収容所の地名を記し、「この事実を決して忘れてはいけない」と書かれています。

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ベルリンの繁華街に立つかって強制収容所があった場所を示す看板。下から5つめにザクセンハウゼン(Sachsenhausen)の地名がある。

ドイツにも右翼はいますが、この看板にペンキが吹きかけられたなどと言うこともありません。この看板にSachsenhausen(ザクセンハウゼン)という地名が見られます。これはベルリンの中心から北々西約40 kmの所にあり、郊外電車で行くことも出来ます。
ベルリンに一番近い強制収容所です。かつての収容所そのままに保存され、見学者を受け入れています。特に教員に引率され見学に来る高校生グループもいます。

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ザクセンハウゼンの強制収容所入り口にはアウシュヴィツ強制収容所と同様に「労働は自由を与える “Arbeit macht Frei”」と書かれている。

ドイツは戦争の被害を受けたと同時に仕掛け人でもあったことを永遠に忘れてはいけないという意志でこのような施設が公開されています。

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ザクセンハウゼンの強制収容所、収容者の集団トイレ
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収容者の服、収容者番号が記されている。
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ザクセンハウゼン強制収容所の寝室

ドイツの教科書も戦争の記述、特にナチスの蛮行に関する記述は実に詳しく書かれています。ドイツは近隣諸国と上手な付き合いが行われているのに対し、我が国はぎくしゃくした対応が続いています。

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当時の処刑法が描かれたパネル

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当時の政治犯の独房

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収容所における死体処理場
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2007年11月26日

「ドイツと日本の戦後処理」

日本とドイツの戦後処理方法は全く異なります。日本の子供たち、いや私もそうでしたが、明治維新から後の日本の歴史を勉強しません。それに対し、ドイツの子供たちはナチスドイツの犯罪を教科書で勉強します。

ベルリンの地下鉄に「バイエルン広場(Bayerischerplatz)」という駅があります。昔そこには多くのユダヤ人が住んでいました。そしてナチスの迫害を受けました。この駅を中心にナチス時代に出された法令を中心にした看板が100枚以上掲示されています。

これを読むと時代と共にユダヤ人に対する迫害が厳しくなっていくことが分かります。「歴史と真剣に向き合わなければいけない、そうでなければ現在に盲目になる」という現在のドイツ人の考え方が分かります。バイエルン広場駅近くにあるユダヤ人迫害の法令を時代順に数枚翻訳をつけてお見せします。

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「新しいドイツ自動車倶楽部はユダヤ人の入会を禁止する」1933年10月1日

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「ユダヤ人の芸術品販売業、骨董商は営業の継続を禁止する。4週間以内に廃業を命じる」1935年

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「ユダヤ人の男子は名前の他に「イスラエル」女子は「サラ」とう名を付与しなければいけない」1938年8月17日

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「ユダヤ人の旅券には“J”と押印されなければならない。国外退去を希望しないユダヤ人の旅券は押収される。」1938年10月5日

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「ユダヤ人の貨物自動車運転免許証、車検は無効となり、回収を命ず」1938年12月3日

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「ユダヤ人は転出に当たり、装飾品、高価値の物品を持ち出すことを禁止する」1939年1月16日

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「ユダヤ人は歯科医、歯科技能士、薬剤師、治療士、看護士の職業に就く事を禁止する」1939年1月17日

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「ユダヤ人は夕方8時以降(夏期は9時以降)外出を禁止する」1939年9月1日

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「ユダヤ人は通勤の用以外に公共鉄道を使用する事を禁止する」1941年9月13日
「ユダヤ人に公共鉄道の使用を禁止する」1942年4月24日
「ユダヤ人の自動券売機の使用を禁止する」1942年6月26日

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「ベルリン居住のユダヤ人の大量追放が実施された。」1941年10月18日
「アウシュビッツへの最初の大量搬送が行われた」1942年7月11日

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「パン屋、菓子屋は「ユダヤ人とポーランド人にケーキを販売しない」という看板を出すように命じる」1942年2月14日
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2007年10月22日

オクトーバーフェスト(Oktoberfest)

オクトーバフェストは10月のお祭りという意味ですが、まさに収穫祭です。ミュンヘンで行われ、世界から観光客が集まります。

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オクトーバーフェストの会場となるテレジエンビーゼ

実際には例年9月の末から10月の初めにかけて、ル−ドヴィックT世の妃テレジアを記念したテレジアンビーゼ(Theresienwiese)という巨大な広場で行われます。ミュンヘンの中央駅から地下鉄で行く事が出来、バイエルン衣装の人々に付いていけば自然に会場に到達します。

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オクトーバーフェストの朝の顔

世界最大のビール祭りと言えばそれまでですが、ここには朝の顔、昼の顔そして夜の顔があります。朝は幼稚園児が先生に連れられ、まさにお手々繋いでやってきます。

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オクトーバーフェスト朝の顔。幼稚園児の後ろで大量の鶏肉が焼かれています。

会場はまだ大量の鶏を焼いたり、鱒を焼いたりという準備中です。昼はビヤ樽を乗せた馬車が会場に入りパレードが始まります。大きなテントのビアホールではそろそろジョッキーを傾ける人も出てきます。

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オクトーバーフェストの昼の顔。まだシラフの人たちがビールを飲み始めます。

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オクトーバーフェストの昼の顔。パレード。

そして夜になるとどのテントのビアホールもバイエルン衣装の人で一杯、楽隊も入り、大騒ぎになります。バイエルン衣装での踊りも始まり夜も更けていきます。ビールを飲んでは食って、食っては飲んでと、今の健康志向の世の中に逆行する。あまり健康によいお祭りではないようですね。でも皆様楽しそうです。

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オクトーバーフェストの昼の顔。パレード。
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2007年10月08日

欧州鉄道

欧州で国境をまたぐ鉄道の高速化が進んでいます。6月10日からドイツとフランスの超特急が初めて相互乗り入れをしました。6月10日に営業運転を開始したのはドイツ鉄道(DB)のインターシティ−エキスプレス(ICE)とフランス国鉄の(TGV)です。ICEが走るフランクフルト−パリ間は従来6時間10分で走行していたものが、4時間10分に短縮されました。また年末には更にダイヤが改正され3時間49分になります。フランスのTGVが運行するパリーシュツトガルト間は3時間39分で結ばれました。

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ドイツの超特急(ICE)

スイスではドイツ系のスイス人が運転をし、フランス系スイス人が車掌をすると快適な旅行が出来ると言われますが、超特急ではどうでしょう?「ドイツ人は時間に正確、だから運転を任せれば列車は遅れない」と考えがちですが、ドイツの鉄道は結構遅れます。一度遅れると決して遅れを取り戻すような努力はしません。この為に接続するはずの列車に乗り遅れたこともしばしばです。これは日本では新幹線と在来線はレールを別にしていますが、ドイツの場合共通にしている事も原因しているのでないでしょうか?ドイツの列車の旅行は一般に快適です。最近は飛行機でのハイジャック検査が厳しくなっています。今年の6月29日にドイツから帰国する際にフランクフルトからの直行便が取れず、ロンドンのヒースロー経由で帰国しました。たまたまテロがあった日ですが、既にその情報が入っていたと見られ、検査は非常に厳しく参りました。2回も靴を脱がされ、バンドは外させられ、携帯したパソコンの中まで検査という状態でした。こういう厳しい検査のお蔭で事故はなかったのでしょうが、この検査のことを考えると鉄道の旅は快適です。

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昔は無かったベルリン中央駅も工事が進み、本格的に利用されるようになりました。しかしまだ中央駅の近くに刑務所が残るなど、周辺の開発には時間がかかるようです。

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2007年10月01日

アレルギー性疾患

大学で、住居のカビや揮発性有機化合物(VOCs)の研究をしているとアレルギー性疾患に悩む患者さんの相談を受けることがしばしばあります。アレルギーとは抗原として働く物質の注射や摂取により、抗体が生じ、抗原抗体反応を起こす、抗原となった物質に対する生体の反応が起きることを言います。注射のみならず、カビの胞子やダニの糞、死骸、各種の化学物質も原因となります。アレルギーの原因となる抗原物質をアレルゲンと呼んでいます。

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「ヘアスプレーを使用してはいけない、治療中は静粛に、新聞雑誌を持ち込んではいけない」など治療に際しての注意が書かれている。

住居に生えるカビ、新建材に使用される化学物質などもアレルゲンとなります。また最近この被害に遭う人が増えています。喘息、アレルギー性皮膚炎、鼻炎、など国民病とも言われています。花粉症もその一つでしょう。

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坑道内の空気が何故清浄になるかの理由が記されている。

先日南ドイツの巨大な森Schwarzwaldを訪問し、Neubulachという村の昔銀を採掘していたという鉱山を見学してきました。(暇ですね!)現在はぜんそくを中心にアレルギー性疾患の治療所として使用されているとのことです。理由は空気がきれいなのと、相対湿度が高いからだそうですが、結構人気があるそうです。

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坑内の治療所。ここで患者は毛布にくるまり静かに時を過ごす。空気はきわめて清浄である。相対湿度は高い。

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「静粛に」と治療地域には書かれている。

このような治療所はスイスにもあるそうですが、唯それだけの環境なら人工的に再現できるように思えるのですが?この場所が巨大な森の中にあり、森林浴をしつつ保養するというのが、都市生活を離れ、治療に貢献するのかもしれませんね。アレルギー性疾患は日本人特有の病かと思っていましたのに、ドイツにも同様の被害者が多いのに驚きました。アレルギー性疾患の起きにくい住宅の開発に努力しております。

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坑道内には様々な金属が見られる。
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2007年09月10日

ローレライ

ライン河の中流に名勝の巨岩ロ−レライがあります。悠々と流れてきたラインはここで川幅が半分ほどになり、巨岩に突き当たるやけですから流速は急に増します。水深は20〜30 m、聳え立つ巨岩は132 mあるそうです。従ってここでは昔から水難事故が多く、美女が船人を水底に引き寄せるなどの話がありました。

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ハインリッヒハイネが「なじかは知らねど心わびて。。」と歌い上げたローレライ

ハインリッヒ・ハイネ(1797〜1856)の詩にフリードリッヒ・ジルヒャー(1789〜1860)が作曲したローレライは近藤朔風により翻訳されわが国でも親しまれています。「なじかは知らねど心わびて、昔の伝説(つたえ)はそぞろ身にしむ。寂しく暮れ行くラインの流れ・・・」

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ハイネは住宅の窓から顔を出す少女に花束を捧げ、愛を告白します。

ローレライはLoreleiと書きます。日本人はLとRの区別がつきません。ビアホールで楽隊が入っていてローレライをリクエストしてもなかなか通じないそうです。そもそもアクセントの位置も最後にあり、日本で一般に話しているのとは異なります。
ハイネはデュセルドルフのユダヤ商人の家に生まれています。ハイネの時代がユダヤとゲルマンがうまく共存していた時代と言えます。ナチ政権になり、ローレライにあったハイネの碑も撤去されたそうです。

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ロマンチストハイネはドイツ人に愛されたユダヤ人でした。デュッセルドルフの出身でした。
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2007年09月03日

ドイツ外斷熱協会創立50周年

些か旧聞になりますが、平成19年6月14日、15日の両日ベルリン市で開催されたドイツの湿式外断熱工法協会(本部バーデン・バーデン)創立50周年記念大会に招待され出席しました。出席者は300人という盛大なものでありました。

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ドイツ外断熱協会創立50周年の記念大会が開かれたベルリン市庁舎はカール・フリードリッヒ・シンケルの作品です。

14日ベルリン市庁舎の大講堂において挙行された式典で挨拶したチーグラー会長が「湿式外断熱工法は2006年に協会傘下企業で4240万平方メートルが施工され順調に伸びている」と報告しました。

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ドイツ外断熱協会創立50周年記念大会でチーグラー会長の挨拶がありました。

それに引き続き来賓として参加した運輸建設省のカスパリック事務局長は「地球温暖化防止のために外断熱工法を今やらなければいつやるのだ!協会傘下の皆様がやらなければ、誰がやるのだ!」と檄を飛ばしました。

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ドイツにおける湿式外断熱施工壁面積の変遷
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ドイツにおける断熱材厚みの変遷

環境省のクルーク事務局長は先日ドイツのハイリゲンダムで行われたサミットの宣言を引き合いに出し、「地球温暖化防止のために外断熱工法が絶対に必要である。今すぐに行動を!」と述べました。さらにベルリン市都市計画局のレーパー局長も「新築はもとより、改築も外断熱工法はベルリン市の美化に役立つ。省エネルギーの為に前進させよう」と述べました。

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ドイツ外断熱協会創立周年を記念して協会から50,000ユ−ロ(約900万円)が福祉団体に贈呈されました。

15日は会場をベルリン市中心部にあるヒルトンホテルの大会議場に移して、防火、接着、断熱改修などの各専門技術部会の報告がありましたが、外断熱マンションを日本で展開する夏目康広康和地所代表取締役とともに講演の機会を頂き、「1977年にサンシャイン計画で太陽熱利用実験住宅を建設する際に湿式外断熱工法を実施したのが始まりで、その後もいろいろ紆余曲折があったが、最近やっとその良さが認められ、確実にその実施例が増えている」と日本の湿式外断熱工法の状況を報告しました。

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6月15日会場をヒルトンホテルに移し、ドイツ外斷熱協会創立50周年記念大会が行われ、ここで招待講演を行いました。我が国においても湿式外斷熱工法が順調に、健全に育っていくことを祈念いたします。

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2007年08月13日

戦争について思うこと2

ベルリン市の中心地である処にブランデンブルグ門が建っています。ここからそう遠くない広大な土地に2005年5月のドイツ終戦記念日に虐殺された欧州のユダヤ人のための追悼記念碑(通称ホロコースト記念碑)が建設されました(場所はCora- Berlinerstraße 1です。)

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「ホロコースト記念館」の上に軽気球が浮かんでいました。

ここには様々な高さの黒いお墓のようなコンクリート塊が並んでいます。ここの地下には展示場があり、いかにヒトラー、ナチズムが残酷であったかを公開しています。そして多くの学生が教員に引率されここを訪ねます。

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ホロコースト記念館では「死体を示す」パフォーマンスも

ドイツでは終戦40周年記念日に当時のヴァイツエッカー大統領が「本日は祝日ではない・・・歴史に盲目になるものは現実にも盲目になる」という趣旨の演説を行い、また2005年1月ナチの絶滅収容所が解放された60周年記念日にシュレーダー前首相は「戦争を知らない世代もこのユダヤ人大量虐殺の記憶から目を離すべきでない・・」と演説を行いました。「この記憶がドイツ国民のアイデンテイテイの一部をなしているからである」とも述べています。

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ベルリン、ユダヤ博物館(建築家ダニエル・リーベスキント(Daniel Liebeskind)設計)

ベルリンには建築家ダニエル・リーベスキント(Daniel Liebeskind)設計によるユ
ダヤ博物館もあります。ここではユダヤの歴史、ドイツとユダヤ人が融和していた時
代(ハイネの時代)そしてナチによる迫害と強制収容所への連行、殺害という歴史の
展示が行われています。

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ユダヤ博物館にて「当店はユダヤ人にサービスしません」との看板展示

歴史への反省という点で、ドイツと日本の相違がよく指摘されてきました。わが国は植民地支配、侵略戦争の罪への反省を忘れるような姿勢を貫いてきました。これはドイツと日本の歴史教科書を比較すればよくわかります。戦後処理に関し、周囲の国と比較的うまくいっているドイツを見るにつけ、周囲の国とトラブルの多いわが国の将来が心配であります。兎も角「戦争は決して起こしてはいけない」「周囲の国々と仲良くやっていきたい」というのが戦争を知っている最後の世代である私の主張であります。
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2007年06月11日

陶製放熱器カッヘルオーフェン

4大文明の発祥の地は年中気候も良く、大した衣服を纏わなくても生活が出来る気候帯であった。しかし人間が生活圏を広げると共に、より寒い土地にも居住するようになった。現在のドイツにも遺跡として床下で燃料を燃焼し床を暖めるヒポカウステン暖房(Hypokaustenheizung)と呼ばれる暖房方式が見つかる。これはローマ人の暖房方式でローマ人が現在のドイツの土地に居住していた証明とされている。最も北で見つかったとされるものではトリア(Trier)に大きなヒポカウステン暖房(Hypokaustenheizung)の遺跡がある。これは規模こそ異なれライン河沿いのケルンやマイン河沿いのフランクフルト、ミルテンベルクなど多くの土地で発掘されローマ人が北上していたことを示している。この暖房方式はウィーンでも発掘されている。その後、ゲルマン人特有の暖房方式が発達するようになった。
人間は寒ければ当然様々な暖房方法を考えるもので、鋳鉄製の放熱器も存在したが、ドイツで特徴的なのは陶製放熱器カッヘルオーフェン(Kachelofen)である。これは現在でも古い住宅で使用されているし、復古調の動きにものり新築住宅で使用されている場合もある。
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うわ薬をかけ、光沢を出したカッヘルオーフェン。1914年にカール・ゼンセ社(Karl Sensse)で製造(Veltenの博物館にて)

燃料は固形、液体、気体と様々な可能性があるが、暖炉の表面は化粧タイルで仕上げられている。博物館や城などに残るものはかなり意匠的にも凝ったものが多いが、庶民の住宅で使用されたものは単に白いタイルで仕上げられたものもある。
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着色され、多彩な模様のあるカッヘルオーフェン。マルク・ブランデンブルク(Mark Brarndenburg)で16世紀にあったものを19世紀末に再度製造した。
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1902年にマイセンの製陶工場で製造された円形カッヘルオーフェン。意匠登録のため製造された。(Veltenの博物館)
カッヘルオーフェン(Kachelofen)は多くの場合室内の隅に置かれ、これから放射成分の多い放熱を行い、反対側の外壁内部を直接温めた。Kachelofenを中心として家族団らんの場ができた。
暖炉の内部には耐火粘土も用いられ、熱容量も大きくやわらかい暖房を行った。この「やわらかい暖房」が欧州の温水暖房に発展してきている。米国では開拓時代の名残か、幌馬車での移動生活からダルマストーブが用いられ、このカッカとした暖かさが現在の蒸気暖房に繋がったとされている。日本には欧州式の温水暖房と米国式の蒸気暖房が入ってきた。2007年3月にベルリンの郊外フェルテン(Velten)でカッヘルオーフェンの博物館を訪ねた。ここでの特徴的なカッヘルオーフェンを紹介する。
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Veltenの博物館には昔のカッヘルオーフェンのカタログも置いてあります。「練炭の種類を煤なしで燃焼するカッヘルオーフェン」と説明されています。
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家庭を築くと居間の中心となるカッヘルオーフェンを作ったか寄贈されたようです。1856年に結婚した夫婦の名前がデザインされています。(Veltenの博物館にて)

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2007年05月14日

戦争について思うこと

今米国議会で従軍慰安婦問題が議論されています。戦後生まれの人が75%を占める日本で、「従軍慰安婦って何のこと?」と思う人が殆どでないかと思います。日本人も自らの民族に誇りを持って生きていくのは当然ですし、そうあるべきと考えます。ドイツにおいても戦後生まれの人が大多数を占めるようになり、多くの人は戦争を知りません。

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「この恐怖の場所を我々は決して忘れてはいけない」との看板がベルリンの繁華街ヴィッテンベルグプラッツ地下鉄駅前に掲示されている。ここにはアウスシュビッツ以下12の強制収用所の名前が刻まれている。

しかしドイツ人が戦時中に行なった事を忘れないように、後世に伝えていく努力は一生懸命に行なわれています。日本の教科書に戦争の事は少ししか書いてありません。ドイツの教科書は非常に詳しく書いてあります。ベルリンの繁華街の地下鉄のヴィッテンベルグプラッツ駅前には「この恐ろしい事を決して忘れてはならない」としてナチス時代に強制収用所があった場所が看板として掲示されています。当然アウスシュビッツが一番上に書いてあります。ベルリン郊外のザクセンハウゼン収容所の名前も出てきます。ここの収容所も公開されており、当時の残虐性をそのまま伝えています。そして常に高校生が教員に引率され見学に来て、祈りを捧げています。

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ナチスドイツの時代に大量のユダヤ人が強制収用所に輸送されたベルリンのグリーネバルト駅は高級住宅街の中にある。

ベルリンの高級住宅地に郊外電車の駅グリーネバルトがあります。当時も富裕なユダヤ人が多くこの地に住んでいたそうです。しかしこの駅の17番ホームからユダヤ人が各地の強制収用所へ送られたそうで、現在はこのホームは使用しないで、保存されています。「何月何日に何名のユダヤ人が何処の強制収用所へこのホームから送られた」という事がホームに記入されています。ドイツ人のやる事だけにこういう統計はしっかり出来ています。

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「17番線のホームには1943年11月8日、50名のユダヤ人がベルリンからアウスシュビッツへ送られた」と刻印されている。

今でも花束が投げられている事があります。まさに終戦直前に強制収用所に送られたユダヤ人、これもよく見るとアウスシュビッツが殆どですが、涙が出て参ります。戦争の事を決して忘れないと言う決意、過ちを繰り返してはいけないと言う固い決意を示しているドイツと、まずい事はなにかうやむやにというわが国との差が感じられます。

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「17番線ホーム:1941年から1945年の間ドイツ帝国鉄道は列車により死の強制収用所に送り込んだことを忘れません。1998年1月27日ドイツ鉄道(株)」
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2007年04月30日

復活祭

キリスト教会で、イエスの復活(処刑後3日目に蘇る)を記念して春分後の満月直後の日曜日に行う祭事で、イースターと呼びます。ドイツ語ではオステルン(Ostern)になり、国民の祝祭日となり多くの人は1週間ほど休暇をとります。

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今の西洋暦では毎年何月何日と決めるわけにもいかず、毎年かなりのずれがあります。キリスト教国でないところでは何時が復活祭なのかも不明で、この時期に商用で欧州を訪ねようとすると先方は休暇中で商用が出来ないということもあります。毎年復活祭付近に行っている見本市も復活祭をはずして開催されるので、これも日程がわからなくなります。

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復活祭ではゲルマンの古代からの風習であるとされているが卵を飾ります。また大きめなチョコレートで作った卵があり、これを庭の樹木の下に隠し、子供が探すという子供の喜びもあります。また復活祭には何故かウサギがつき物であります。うさぎがイースターの卵を持ってきて木の根本に隠すと伝えられています。各商店や家庭ではウサギを飾ります。

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ロシア帝国の最後の皇帝ニコライ2世が、皇后への贈り物として、宝石の細工師ファベルジェに作らせたものは宝石、金銀をちりばめ、「インペリアル・イースターエッグ」と呼ばれ最も高価なものは11億円もの値段が付いたそうです。卵は新しい生命の誕生を意味しますし、ウサギは多産であることから「豊穣、子孫繁栄」を意味するそうです。ちなみにプレイボーイ誌がウサギをシンボルとしているのもウサギが多産であることから「セクシー」を意味する事によるそうです。

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キリスト教の暦を知らない我々にとっては少々迷惑な復活祭の休暇でありますが、復活祭が過ぎると長かった冬も終わり、花々が一斉に咲き春がやってきます。ちなみに2007年の復活祭は4月8日でした。
日本の正月休みは欧州のクリスマス休暇に、5月の連休はイースター休暇に相当し、纏めた休みが取れこの日が来ることを楽しみにしています。
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2007年04月16日

テンペルホーフ飛行場

ナチス政権の時代にテンペルホーフ飛行場がベルリンの街中に出来ました。この地区は戦後米国の占領下に入り、国内への飛行機は主にここから飛びました。東西ベルリンの間にベルリンの壁が構築されるや、東ベルリンのシェーネフェルド飛行場を東ベルリンとソ連の航空会社が使用し、西ベルリンのテンペルホーフ飛行場は米国のパンアメリカン、英国のBA、フランスのエアフランスがドイツ国内と西ベルリン各地を結んで、飛行しました。ドイツの航空会社ルフトハンザは飛行を許されていなかったのです。

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「冷戦時代に西ドイツ、西ベルリン間を結んだプロペラ航空機が閉鎖されるテンペルホーフ空港に飾られている」

冷戦が進むとソ連は1948年にベルリンの封鎖を行ないました。すなわちベルリンと旧西ドイツとの間の鉄道、高速道路を事実上閉鎖され、当時200万人いた西ドイツ市民は食糧危機に見舞われました。そこでこれに対抗し、西側は空輸作戦を行い、ドイツ各地から西ベルリンに物資を輸送しました。この拠点となったのがテンペルホーフ飛行場であした。1971〜1973年のベルリン工科大学留学中もよくテンペルホーフ飛行場を使用し、西ドイツ各地に飛んだことがありました。当時はプロペラ機が中心でしたが、飛行場の大きく張り出した屋根の下に機体が入ってきて乗客は雨の際にも濡れることなく乗降ができるようになっていました。

よくテンペルホーフから西ドイツ各地へ飛行機で旅行したのは、当時の西ドイツ政府が航空運賃の半額を補助したのです。そうしないと西ベルリンの人口が自然に減少し、西側が西ベルリンを放棄することにもなりかねなかったからです。当時を記念し西ベルリンと西ドイツを結んだ物資の空輸作戦を「空の橋」“ルフトブリュッケ”と呼び記念碑が飛行場の前に立っています。

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冷戦時代米軍が西ドイツと西ベルリン間で行なった大空輸作戦「空の橋」を記念して空港に残る記念碑

この飛行場も現在はベルリンとマインツ、ザールブリッケンを定期航空便が飛んでいるほかは僅かなチャーター機が飛んでいるに過ぎません。街中にあるので、騒音問題から夜間の離着陸が出来ない、維持費がかかりすぎるなどの理由で、2008年10月までに閉鎖されることが決まりました。これで冷戦の生き証人も静かに消え去っていくのでしょう。1971〜1973年ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所の客員研究員としてベルリン滞在中に日本から多くの方が私を訪ねて下さった。そしていつも迎えにいったのがこのテンペルホーフ飛行場でありました。そしてこの飛行場は多くの乗客で常に賑わっていました。人の殆んどいなくなった飛行場に入ると、冷戦のさなかにベルリンで生活をした者にとって、何とも言えない寂しさを感じるものであります。

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「冷戦時代は常時多くの乗降客で賑わったテンペルホーフ飛行場も閉鎖を前に閑散としている」

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2007年02月22日

古代のドイツ

古代日本の事が中国の歴史書「魏志倭人伝」などにより日本に伝えられたように古代ゲルマンのこともローマの歴史書、タキトウスの「ゲルマーニア」(岩波文庫より和訳あり)によって伝えられました。
現在のドイツの土地はローマ人によって支配され、9世紀にウァールス率いるローマの軍団がアルミニウス率いるゲルマンの軍団に破れ、敗退し、現在のドイツの土地にゲルマン人が住むようになりました。


カルクリーゼの森

この戦いがトイトブルグの森の戦いといわれ、歴史書には書かれていたのですが、場所が特定されませんでした。1971年私が留学生としてドイツ語を学んだのがヘアフォードという土地でしたが、ハノーバーからヘアフォードに列車が向かう途中にミンデンという駅があり、その近くにヘルマン像という巨大な剣を天に差し向けた銅像が立っていました。
ヘルマンとはアルミニウスのドイツ名で、その敬礼はヒットラーの敬礼の元ともなった国粋主義の象徴でもありました。この土地がトイトブルグの森ですが、実際は最近になり、オスナブリックの北20kmの土地カルクリーゼでローマの貨幣や人骨が多量に発見され、これが戦場跡であったと同定されました。国粋主義を煽ってはいけないというドイツの配慮かあまり知られてはいません。

交通の便も悪いカルクリーゼへ出かけまだ発掘が続く戦場跡を見学したことがありました。そこでは鬱蒼とした森があり、ドイツの古代史とは無関係に子供たちに森と親しむ教育が行われていたのが、印象的でした。


カルクリーゼの森:子供が学んでいる
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