2010年8月に「建築家ブルーノ・タウト 人とその時代,建築,工芸のご紹介」を上梓しました。購入はこちらからお申込み下さい。 トップページには最新の記事が表示されます。最新5件の記事はメニューの一番上「最近の記事」に記載されています。それ以前の記事は「月ごとの記事」「カテゴリ」等でご覧下さい。

2008年12月29日

バオハウス(Bauhaus)

ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)が1919年にヴァイマール(Weimar)に設立した建築と工芸の学校バオハウス(Bauhaus)は1924年にデッサオに移転した。この1919年はヴァイマール憲法が制定され極めて民主的で理想的といわれたヴァイマール共和国が出来た年でもあった。


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建築の歴史に残る重要建築の一つ」バオハウスです。グロピウスが校長をしていたので前の道をグロピウスアレーと呼びます。戦禍で痛みましたが修復工事も終了したようです。

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バオハオスの修復なった校舎部分


しかし保守的な風土があり、デッサオの方が工業都市として魅力的で、バオハオスはデッサオで開花されたと言う。バオハオスの建物、教授の宿舎などがユネスコの世界文化遺産に指定されている。


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バオハウスの中では展覧会の案内もありました。日本についてもあり、ポスターに日本の挨拶が使用されていました。抱擁や握手は駄目で、45度の頭を下げる挨拶が紹介されていました。

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バオハオス内の階段です。建物を明るくする楽しい階段に見えます

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バオハオスの入り口です。この学校は存続期間は長くなかったのですが、世界に影響を与えた多くの芸術家、建築家がここで育ったと思うと感慨の深いものがありました。

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2007年12月17日

ヘルマン・ムテジウス(Hermann Muthesius)

ヘルマン・ムテジウス(Hermann Muthesius, 1861年−1927年)はグロースノイハウゼン(Gros- Neuhausen)というエアフルトの近くの町で左官を中心とする建設業を営む家に生まれました。エアフルトは宗教改革を実行したマルチン・ルッターが活躍した所でもあります。

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ベルリンのFreudenbergにあるニコラスホーフという館は1906年−1907年の間にムテジウスの設計の元に建設され1974−1975年の間にKlammt社により修理保全が行われたという看板が出ている。

幼少にして牧師の教育を受け、建築の道を進みます。ベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学で芸術史を専攻した後工科大学へ移り本格的に建築の勉強をします。1887年に卒業後ベルリンの帝国議会を設計したパウル・バロット(Paul Wallot)の事務所に勤務し、バロットの影響を受けます。

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ベルリンのニコラスホーフと呼ぶ館(ムテジウス設計)

その後エンデ・ベックマン(Ende Bockmann)の事務所に勤務し、同事務所が請け負った東京の丸の内官庁集中工事に従事するため3年ほど来日します。法務省の赤煉瓦棟は有名ですが、その暖房工事をヘルマン・リーチェル(Hermann Rietschel)が受けています。その間にも個人としてプロテスタントの教会を日本で設計しています。

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Haus de Burletと呼ばれる小住宅でベルリンのSchlickwegにあります。ムテジウスの設計です。

1896年−1903年の間、プロシャの官吏としてロンドン大使館に勤務し、英国の住宅や「芸術と工業」の影響を受けます。英国の家 “Das englische Haus” を1904年に出版して有名になり、著書は500冊になります。1907年ドイツ産業の振興を目的としたドイツ工作連盟を設立します。ムテジウスはプロテスタントの影響か、規格を尊重し、台頭してきた自由主義の建築ユーゲンドシュティール(Jugendstil:日本ではアールヌーボーの方が通りがよい)の建築家と論争を繰り広げます。

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ベルリンのPacellialleeにあるHuas Cramerと呼ばれるムテジウス設計の館です。

ここの今もベルリンに残るムテジウスの住宅を紹介します。大きな英国の牧歌調民家が思い浮かばれます。余談になりますが、小生が1971年−1973年までベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所にいた時代に同室の助手がムテジウスが設計した家を購入したことがありました。大分痛んでいましたが、大きな家だったのに驚きました。大学の助手がこんな立派な家を購入できることにも驚きましたが、夫人は大きな家の管理(家事労働)に困惑し、離婚してしまいました。その後本人と小生との音信も途絶え、残念に思っています。

ムテジウスが1906年−1907年に設計した自邸です。ベルリンのPotsdamer Chausseeにあります。緑が豊富で写真撮影に苦労しました。
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2007年11月12日

シンケルの建築

2007年9月3日のブログでシンケルが設計したベルリン市庁舎でドイツ外断熱協会創立50周年の記念大会が開催されたことを報告しました。

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劇場(Schauspielhaus)ベルリン市中央ゲンドラーメン市場にあります。シンケルの設計で、1818年〜1821年に建設されました。この建物の両側にドイツの塔、フランスの塔と呼ばれる教会が建っています。

カール・フリードリッヒ・シンケル(Karl Freidrich Schinkel, 1781年〜1841年)はベルリンの郊外ノイルピン(Neuruppin)で生まれ、画家、建築家として特にベルリンに多くの古典的・ゴシックの公共建築物を残しました。

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ベルリン市中央にある教会で、フリードリッヒスヴェルデルシュ教会と呼ばれます。シンケルの設計で、1824年〜1830年で建設されました。

ベルリンはプロシャの首都としてフリードリッヒU世(1712年〜1786年)の力により確固たるものとなりましたが、その後のベルリンの顔となる建築を次々に残しました。ベルリンにはシンケルの博物館もあります。

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古い博物館(Altes Museum)と呼ばれる建物です。ベルリン中央のLustgartenにあります。シンケルの設計で、1823年〜1828年に建設されました。

氏の建築はギリシャ建築の精巧なる模倣と言ってしまえばそれまででしょうが、ギリシャ建築にはないドイツのシンボル「鷲」を配したり様々な工夫がなされています。ベルリンの町に重厚さを与えたのがシンケルの建築と言って差し支えないでしょう。

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新監視所(Neue Wache)と呼ばれ、ウンターデンリンデンの4番地にあります。無名戦士の追悼碑にもなっており、旧東独時代はここで、衛兵の交代が行われました。シンケルの設計で、1816年〜1818年に建設されました。

1973年12月にベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所での滞在を終え帰国する際にエスドルン教授他研究所のスタッフが全員でシンケルとベルリンの本を贈呈してくださり、署名を頂きました。何よりの宝として現在も大切にしています。

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ベルリンとポツダムの境界にあるグリニッケ城(Schlos Glienicke)1825年〜1827年にシンケルの設計により建設された。フリードリッヒV世の夏の館として使用された。近くにポツダムと西ベルリンを結んだグルニッケ橋がある。冷戦時代はここで、東側と西側の捕虜の交換も行われ、最も緊張した橋であった。

その時プロッツ教授がシンケルは自分と一緒のノイルピン出身であることを打ち明けてくれました。それは旧東独で当時は訪問が不可能でした。

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シンケル設計によるグリニッケ城(1825年〜1827年)

プロッツ教授は当時から東独は長くは持たないという持論で、東西ドイツが統合されたら小生を案内すると約束してくれました。「不渡り手形」かとも思いましたが、実際に実現、いまから8年ほど前にプロッツ教授にシンケルの生家と教授の生家を案内していただきました。

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シンケル設計によるグリニッケ橋
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2007年09月24日

ヴァイセンホーフ(Weissenhof)住宅団地

Stuttgart(シュツットガルト)のWeissenhof(ヴァイセンホーフ)住宅団地。ドイツは第一次世界大戦で敗戦、住宅が欠乏し、かつ水準が下がりました。この水準を取り戻すべくヴァイセンホーフ地区に世界から有名建築家を集め、住宅水準の向上に努力しました。しかし第2次世界大戦でシュツットガルトは激しい空襲に遭い多くの住宅を再度失うことになります。

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ル・コルビジェ(Le Corbusier(6.10.1887-27.8.1965)設計。集合住宅。1927年建設。1983-1984年改修。

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オウドJ. J. P. Oud(9.2.1890-5.4.1963)設計。5家族連続住宅1927年
建設。1983-1984年改修。

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ミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe,27. 3. 1886- 17. 8. 1969)設計。
1927年建設。1984- 1986年に改修。集合住宅

1980年代に再建が行われましたが、当初からあったブルーノ・タウト、マックス・タウトの作品は再建されることもなく空き地となっているのは悲しいものです。ベルリンのテイアガルテンにあるハンザフィアテルの規模を小さくしたような団地ですが、有名建築家の作品を比較的楽に歩ける範囲に配置していることは有り難いことです。団地の中央には資料館もあり、住宅建築を学ぶ人にとっては有り難い施設であります。

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ハンス・シャローン(Hans Schroun, 20. 9. 1883- 25. 11. 1972)設計。独立住宅。1927年建設。1979-1981年に改修。

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アドルフ・シュネック(Adplf G. Schneck,7. 6. 1883- 27. 3. 1971)の作品。2家族住宅。1927年頃建設。1985-1986に改修。
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2007年08月06日

フンデルトバッサー設計のウイーン・シュピッテラウ(Spittelau)の地域暖房プラント

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ウィーンの地域暖房プラントの案内図。この図面もフンデルトバッサーによりデザインされた。

これは、住宅に熱を供給するプラントであり、以前は無味乾燥な建物でありました。ウィーン市の郊外にあり、市の中央からは地下鉄で行くことができます。建築家ペリカン(Peter Pelikan)の協力を得て建設されました。また地域暖房公社の技師クライナー(Jürgen Kleiner)が設備設計を行っています。1988年に着工、1992年に竣工しています。

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ウィーン郊外のシュピッテラウにあるゴミ焼却場兼地域暖房プラント

とてもプラントと思えないカラフルな彩色、煙突には葱坊主を用い、植栽を行っています。ゴミ焼却場の廃熱を熱供給しようというもので、かつ煙突からの廃ガスは極めて高度な浄化施設を採用しています。

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ごみ焼却場などは本来無味乾燥の建築が多い。ここでフンデトバッサーは既成概念を覆し氏の主張する思い切ったデザインを行った。屋上の左側に氏の鳥打ち帽が見える。

フンデルトバッサーはこの建物に対し、「人間は自然から来た客人である。従ってゴミを出さないように努力すべきである」という言葉を残しています。氏はごみを出さないこととしてゴミ焼却の廃熱を利用し熱供給を行ったのでした。

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これは既設のウイーン市の地域暖房プラントの管理棟であった。フンデルトバッサーは既設の事務所棟に燃えさかる炎をイメージし、赤い船を入れることで、隣接する自らの設計によるごみ焼却プラントとのバランスを取った。
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2007年07月30日

フンデルトバッサー設計のウイーン芸術の家(Kunsthauswien)

この建物は家具会社トーネット兄弟社(Gebrüder Thonet)の跡地にあり銀行家フロッテル(Walter Flottle)の出資によるもので、公的資金は入っていません。ウイーン市営住宅の比較的近く、Unteren Weißgerberstraßeに建っています。フロッテルはウイーンを欧州の地理的な中心と考え、ここでの国際芸術展示を希望しました。着工が1989年で、1991年4月に竣工しています。

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ウィーン芸術の家のエントランス。床は決して平坦ではない。

展示場面積は4000m2あり、1階は入場券売り場、コーヒーショップ、売店、クロークなどがあり、2階がフンデルトバッサーの作品展示場となっています。氏の描いた数々の絵画、つづれ織りの掛けもの、建築模型などが展示されています。そして3階から4階は展示物が置き換わる国際展示場となっています。

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ウィーンの芸術の家。フンデルトバッサーの絵や設計図もたくさん展示されている。

フンデルトバッサーはこの建物に対し、「芸術は色彩を認知しなければならない」「芸術は人間に向けられたものでなければならない」「芸術は創造の為のものか?それとも創造に相反するものか」「芸術は人間の為のものか?それとも人間に相反するものか」という言葉を残しています。この芸術の家もウイーンの街中にありながら多くの緑を取り込み、特に中庭の緑は素晴らしいと思います。ここではコーヒーやケーキを飲み食べることが出来ます。

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ウィーンの芸術の家の中庭ではコーヒーやケーキを楽しむことが出来る。

しばし旅行の疲れを癒すのに最適な場所です。日本の夏にこのような場所でボーッとしていればたちまちやぶ蚊の餌食になったり、樹木から下がってくる毛虫がコーヒーに入ってしまったりと、とんでもないことになるのでありますが、緯度の高い所に所在するウイーンではそういうことはありません。

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ウィーンの芸術の家のトイレのタイルに至るまでフインデルトバッサーによりデザインされている。
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2007年07月23日

フンデルトバッサーのウイーンの市営集合住宅(Hunderttwasserhaus Wien)

この住宅はフンデルトバッサーを建築家として有名にさせた作品で「集合住宅は直線からなる、特に公共建築においては」というウイーン市の建築担当者の概念を打ち破ったものであります。1977年に設計に入り、1983年8月着工、1986年2月に竣工しています。

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フンデルトバッサーの名前を有名にしたウィーンの集合住宅。水を愛し、噴水のある作品が多い。

ここでフンデルトバッサーは建築家ペリカン(Peter Pelikan)の協力を得ています。設計着手から着工まで相当の歳月を要しているがウイーンの集合住宅、公共建築の概念を打ち破ることに対する抵抗が大きかったことを想像させます。しかし「フンデルトバッサーの思うようにやりなさい」という当時のウイーン市長グラッツ(Leopold Gratz)のの強力な後ろ盾を得てこれを完成させています。1977年12月16日にウイーンの市庁舎を訪問し、フォヒ助役(Pfoch)と面会し、ウィーン市役所の建築技師クラビナ(Josef Krawina)の協力を得ることになりました。

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フンデルトバッサーの出世作。ウィーンの集合住宅。環境共生住宅のはしりでもある。

屋上には葱坊主がのり、様々な樹木が植栽され、窓からも木が生え茂っている、ファッサードはカラフルな色彩と曲線。フンデルトバッサーを世界的に有名にした代表作であります。住宅はウイーンのKegelgasseと Löwengasseに面して建てられています。フンデルトバッサーはここでも建築職人と一緒に仕事をし、コンクリート練り、タイル貼りまで手を出し、直接指導を行っています。屋上の植栽も職人が適当に植えたのではないかと想像されますが、実はそうでなく、フンデルトバッサーが屋上の植栽図面を描き、しらかば、クルミ、桜、菩提樹、などを植える場所を丁寧に示しています。正真正銘の設計施工であります。
フンデルトバッサーはこの住宅に寄せて「この家は人間の鏡の映像である“Das Haus ist das Spiegelbild des Menschen”」という言葉を寄せています。

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フンデルトバッサーは自らの名前を「百水」と称したように水を愛した。噴水や池を取り入れた建築が多い。
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2007年07月16日

フンデルトバッサー設計のドイツダルムシュタット(Darmstadt)にある集合住宅

赤や黄色、緑、そして青が多用され、どこまでも続く曲線、渦巻きが多用され屋根や窓から樹木が覗いている建築、それがウイーン(Wien)出身の建築家フンデルトバッサーの作品です。フンデルトバッサーは1928年にウィーンで生まれ、本名をフリードリッヒ・シュトバッサー(Friedrich Stowasser)と言いました。生誕直後の1929年に技術職の役人であった父親を失っています。

少年時代から色彩と造形に特異の才能を示し、教師を驚かせましたが、母方がユダヤ系の家族であった為、1938年には強制疎開を行い祖母と叔母の元に行っています。そして1943年には母方の親族69名が強制連行され殺害されています。その中には祖母、叔母も含まれていました。このような生い立ちが氏の作品に多大な影響を与えたとする解説書もあります。

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フンデルトバッサー設計によるダルムシュタットの集合住宅

1948年に大学入学資格を得、ウイーンの美術工芸アカデミー(Akademie der Bildenden Künste in Wien)に入学、ロビン・クリスチャン・アンダーセン(Prof. Robin Christian Andersen)教授に師事しています。(このアカデミーは画家を目指して受験したヒットラー(Hitler)が入学に失敗をした事でも有名な学校であります。)しかしアカデミーでは長続きせず1949年に北イタリア、トスカーナ、ローマ、ナポリ、シシリア島を絵を描きながら旅行をしています。そこで後に氏の建築に現れる赤や黄色、緑、そして青が多用され、どこまでも続く曲線、渦巻きが絵画に現れてきます。この年が氏の様式が確立されたときでもありました。

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フンデルトバッサー設計によるダルムシュタットの集合住宅、外断熱が施されている

そしてこの年にフンデルトバッサー(Friedensreich Hundertwasser)と名乗るようになります。Hundertはドイツ語で「百」をWasserは「水」を意味し、「百水」ということになります。ちなみにFriedensreichは「平和な帝国」を意味します。幼少の頃ユダヤ系の血をひく市民として迫害を受けたことは生涯決して忘却できるものではありませんでした。氏の作品はこの名前から水と親しむ建築が多いのです。水が流れ、緑が茂り、人と自然が共存する建築であります。事実、氏の作品には噴水や池があるものが多いのです。

その後も外国旅行を繰り返し、特にパリでの生活が長く、絵を描いては展覧会を開き、賞を得るという生活を繰り返しています。ここではダルムシュタットのフンデルトバッサー住宅を紹介します。ダルムシュタットはフランクフルトの南、凡そ40kmのところに有る工業都市であります。人口14万人の市であります。ここの大化学工業会社に敷地を隣接してフンデルトバッサーの住宅が建っています。この住宅は一時化学工場の拡張に伴い取り壊しの危機にたたされたことがありました。しかし一般市民の反対運動によりその難は免れて現在も存在しています。そのような災難があったせいか、他のフンデルトバッサー住宅に比べ、建物が若干疲れたように見えます。これは住宅の着色が少し褪せてしまったせいかもしれません。この住宅はダルムシュタットの森の螺旋 ”Waldspirale von Darmstadt” と呼ばれています(所在地はBad Neuheimer Straße 6, D-64289 Darmstadt)。建物の平面はU字形になっており、中庭が存在します。この建物も外断熱が施されています。

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フンデルトバッサー設計によるダルムシュタットの集合住宅・少し色褪せてきている
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2007年07月09日

プロヒンゲンのフンデルトバッサーハウス

プロヒンゲン(Plochingen)はシュッツトガルト(Stuttgart)の郊外にあり、シュッツトガルト中央駅から郊外電車に乗ると40分程度で行くことができます。ウルム(Ulm)やミュンヘン(München)方向に向かう列車も、鈍行であればプロヒンゲンに停車します。駅前にすでに “Hundertwaserhaus(フンデルトバッサーの住宅)“ と建て看板があり、徒歩5分程度で到着する至近距離にあります。列車の車窓からもこの目立つ住宅は目に入ります。

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プロヒンゲンの集合住宅にあるフンデルトバッサーの自画像。フンデルトバッサーは鳥打帽を愛用しました。氏はこの仕事により市長の希望を実現しました。

当初建築家シュプリングマン氏(Heinz. M. Springmann)が手がけていましたが、ベック(Beck)市長の要請によりフンデルトバッサーが参加しました。一部工業用地を含む、高速道路と鉄道の交差する土地にこの集合住宅は建っています。市長は「プロヒンゲンのシンボルになる住宅を!」と要請し、フンデルトバッサーはこれに応え、高い派手な水道塔を設け、これが住宅のそしてプロヒンゲンのシンボルとなり、高速道路を走る車や列車の車窓から見えるようにしてあります。

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フンデトバッサーによるドイツ・プロヒンゲンの集合住宅

住宅には中庭を設け、中庭に面するファッサードに曲線を多く取り入れた窓、多彩な着色、そして窓辺の植栽と訪問者の目を楽しませてくれます。ウィーン(Wien )郊外で生まれたフンデルトバッサーは「ウイーンのような大都会に自然は無く、そこに多くの人が生活をしている。ではその生活の舞台である住宅に自然を取り入れればよいではないか、そして自分が幼少時代をすごしたオーストリアの森、郊外に直線は無い、全て曲線から構成されていた」と主張し、ここプロヒンゲンの集合住宅だけでなく全て氏の作品は曲線が取り入れられています。

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フンデルトバッサーによるドイツ・プロヒンゲンの集合住宅

ここの住人も本来中庭で日光浴をしたり、コーヒーやビールを飲んだりすることを希望するでありましょうが、こうも多くの見物客が訪問するとなると住人のプライバシーなど損なわれてしまうでしょう。有名建築家の作品の住人にはプライバシー保護の権利はある程度損なわれても仕方が無いのかもしれません。という筆者も実に出張のある度、この住宅を訪問し、その数5回になります。決して特定の住宅を覗きに行ったわけではない事をお断りしておきます。この住宅の着工は1990年11月、引渡しは1994年2月であります。

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フンデルトバッサーによるドイツ・プロヒンゲンの集合住宅
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2007年05月28日

メンデルゾーン(Erich Mendelsohn)

エーリッヒ・メンデルゾーン(1887〜1953)はブルーノ・タウトと同様にドイツのケーニクスべルク出身である。アール・ヌーボー(ドイツではユーゲンド・シュテ−ルと呼ぶ)を引き継ぎ彫刻性に富んだ表現主義の建築を設計した。

特にポツダムに作ったアインシュタイン塔と呼ぶ気象観測の建物は有名である。これは戦火により破壊されたものの、旧来通りに再建されている。

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ポツダムに建つアインシュタイン塔、メンデルゾーン設計

アインシュタイン塔の断面図を入手することができたので、ここに公開する。

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メンデルゾーン設計のアインシュタイン塔断面図


ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所で客員研究員をしていた際の友人アクセル・ヤーン(Dr. Axel Jahn)の蔵書Walter Müller Wuckow著 “Architektur der Zwnziger Jahre in Deutschland“ より引用を行った。また1926〜1928年にベルリンのレーニナー広場に建設されたウファー(UFA)映画館、キャバレー、そして集合住宅の建設ブロックは改築されたものの現存している。

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「ベルリンのUFA映画館、メデルゾーン設計」ユーゲントシュティ−ル

メンデルゾーンはユダヤ系であったために1933年に英国に亡命、さらに41年にはサンフランシスコに移住し、そこで市民権を得た。音楽家のメンデルスゾーン(Mendelssohn)もユダヤ系ドイツ人であったが、建築家とは姓のスペルが異なる。ハインリッヒハイネ(1797〜1856)もユダヤ系であったが当時はユダヤ人とドイツ人がうまく融合していた時代であった。ドイツがユダヤを排斥するようになってから突出する優秀な人物がドイツから排出しにくくなったのではないだろうか。

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メンデルゾーン設計、映画館に接続する集合住宅
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2007年05月21日

グロピウスとダンマーシュタット

ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius、1883〜1969)はペーター・ベーレンスの弟子であったが1910年に独立し、ファグス靴工場(1911〜1912)を設計して有名になります。

建築と工芸の国立学校バウハウスをワイマール(Weimar)に造り1919〜1926年初代校長を務めます。これは国立バウハウス・ワイマールと呼ばれ、後のバウハウス・デッサオ(Bauhaus Dessau)と合算すれば10余年の間、世界のデザインの最高峰となりました。あらゆる芸術的創造を会わせ統一する事を目的に、また師弟教育を重んじました。

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グロピウスの設計、隣棟間隔が十分に取られている

すべての生徒は二人の師匠から学ぶこととし、一名は手工作の師匠、一名は構成の師匠から学びました。教師も有名人が名を連ね、カンデインスキ−、パウル・クレー等も含まれています。グロピウス自体はその後バウハウスのデッサオ校の設計も行っています。
しかしグロピウスの自由主義による創造はナチス政権から睨まれ、1934年英国に亡命、さらに1937年には米国に1938〜1952年の間ハーバード大学の教授を務めています。

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「急行電車に座ってダンマーシュタットへ、ダンマーシュタットへ、ダンマーシュタットへ」と宣伝された郊外電車ダンマーシュタット駅の現在。恐らく当時と同じであろう。

第二次大戦後はドイツの建築再興に尽力し、ベルリンのハンザフィアテルでの集合住宅や住宅団地「グロピウスシュタット」をベルリンの南部に作りました。一方カールスルーエ(Karlsruhe)のダンマーシュトック(Dammerstock)に建築家オットー・ヘースラーと共に新しい団地を造りました。1933年に最初の住棟ができ、1933-1945年に建設された住棟、1945年以降に建設された住棟からなっています。カールスルーヘの中心部からかなり離れたところで、最初のスローガンが「急行に座ってダンマーシュトック、ダンマーシュトック、ダンマーシュトック、ダンマーシュトック、へ!」。

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ダンマーシュトックの住宅団地、設計グロピウス1933年以前のもの

1933年当時は住宅は建築としては重要視されていませんでしたが、グロピウスはこれを大切にし、どこの部屋にも太陽が入るようにと東、西からの採光も行われています。十分な住棟間隔がとられ、厨房も主婦の立場にたち、造りつけの厨房器具が備えられました。当時は結核が流行し、その予防に十分な日射の取り込み、住棟間隔は必要であったのでありましょう。(参考文献:Georg Patzer著, Kleine Geschichte der Stadt Karlsruhe, G. Braun Buchverlag)
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2007年05月07日

コルビジェの建築

1957年のインターバウにコルビジェも参加をしました。しかし氏の作品は大きすぎ、どうしてもハンザフィアテルの中には入りませんでした。マルセイユのユニテで名声を得たコルビジェはこれをベルリンのオリンピックスタジアムの近くに建てさせました。ベルリンタイプのユニテと呼ばれ、氏の3番目のユニテとなりました。

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ベルリンのコルビジェのユニテはオリンピックスタジアムの近くにある

モデュロールは大きめに取られ、部屋の幅は4m、天井高さは2.5mでありました。合計527戸の住宅が収められています。青、赤、黄色と豊かな色彩を随所に配置し、現場打ちの鉄筋コンクリートと工場生産のプレコンを上手に使い分けています。西側ファッサードにはモデユロールが刻まれています。他のハンザフィアテルの建築と同じく1957年の建設ですので、すでに60年が経過していますが、現在も豊かなベルリンの森の中に聳え建ち、これを見る者の心を和ませてくれる不思議な力を持っています。

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コルビジェのユニテにはモデユロールが刻まれている。

ベルリンの鉄道Sバーンの終点オリンピックスタジアム駅の直ぐそばに建っています。コルビジェの建築は打ち放しコンクリート、ピロティーと呼ばれる高床式構造が特徴ですが、前川国男、坂倉準三、吉村順三、吉阪隆正などの弟子により日本にうまく順応してコルビジェの方式が導入されました。むしろコルビジェが日本の白木の建築、高床式構造からヒントを得たと言っても良いのでしょう。

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コルビジュエのベルリンのユニテ

1806年のナポレオンによるプロシャ撃破、1812年にはナポレオンのロシア遠征失敗によりプロシャ軍など連合隊によるナポレオンの敗退、ナチスドイツではドイツ軍に首都パリを占領されるなどドイツとフランスは常に戦争を繰り返していました。戦後もドイツ並びに西ベルリンは一部地区をフランスにより占領されていました。

このような状況の中、フランスの巨匠ル・コルビジェがベルリンにユニテを作った事は格別な意義があると思います。政治的にもドイツの首相アデナウアーとフランス大統領ドゴールが手を握り、EC(欧州共同体)が出来、さらに現在のEU(欧州連合)にまで発展するに至ったのです。筆者がベルリン工科大学にいた頃、フランスの子供をドイツの家庭に送り、ドイツの子供をフランスの家庭に送り生活をさせるということが始まり、当時は驚きの目で見られていました。このような地道な努力が実を結んで共通の通貨が使用されるなど、強いEUが出来てきたものと考えます。

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ドイツのアデナウアー首相とフランスドゴール大統領の握手は長く続いた独仏の戦いに終止符を打ち、現在の強力なEUを作る基礎となった。
posted by 田中の住居学 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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