2010年8月に「建築家ブルーノ・タウト 人とその時代,建築,工芸のご紹介」を上梓しました。購入はこちらからお申込み下さい。 トップページには最新の記事が表示されます。最新5件の記事はメニューの一番上「最近の記事」に記載されています。それ以前の記事は「月ごとの記事」「カテゴリ」等でご覧下さい。

2010年01月25日

ブルーノ・タウトが仕事をしたマクデブルグの町

マクデブルグは旧東独の都市で、ザクセン・アンハルト州の州都です。かっては東方のスラブ人と戦う際の要衝として重要な役割を果たしました。 805年、カール大帝時代の文書に初めてこの名があらわれます。 神聖ローマ帝国初代皇帝オット− 一世が即位前に過ごした街としても知られています。かつてその宮殿が在った場所には、ドイツ最初のゴッシク建築と言われる聖マウリトス大聖堂が建っており、オットー大帝とその妻エドギタの棺が安置されています。 968年に大帝によって司教座が置かれ、以後、大司教の保護の下で大いに栄えました。後にはハンザ同盟の一員となりました。 1301年、ツンフト(同職ギルド)が市政参加を求めて蜂起したが失敗、首謀者が処刑されました。 1524年、宗教改革に際しルター派に転じました。 マクデブルグ大学は初めて創設されたルター派の大学です。 30年戦争で打撃を受け、市長オットー・フォン・ゲーリケが復興に力を尽くしました。 この市長は優れた物理学者でもあり、真空の実験(マクデブルグの半球)を行ったことで知られています。ブルーノ・タウトはこのような町で1921年から24年まで市の建築顧問を行っている。

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マクデブルグは古い町ですから古い建物も多く残っています。これは現在も建築の専門学校として使用されています。


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ドイツで一番古いといわれるゴシックの教会「聖マウリトス大聖堂」


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聖マウリトス教会を横から見た所です。


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マクデブルグ市のヨハネ教会(Jahaneskirche)です。


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マクデブルグ市には新しい建築としてオーストリアの建築家フンデルトヴァッサーが設計したフンデルトヴァッサーハウスがあります。


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フンデルトヴァッサーハウスの塔部分です。


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フンデルトヴァッサーハウス内の売店です。楽しいですね。



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2009年10月19日

アーヘン「馬の町」

アーヘンは馬の町としても有名です。馬場馬術の名人がおられ、オリンピック選手もここで訓練します。それだけに町中は馬の像であふれています。写真を撮りだしたらきりがありません。

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商店の軒先によく馬が飾られています。

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街中に立つ花に囲まれた馬です。

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アーヘン市庁舎に隣接するラーツケラー、ツーム・ポストヴァーゲンに立つ馬。こんなメタボでは走れませんね。

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声高らかにいななく馬です。

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色彩豊かな馬です。

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馬の群像です。

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大聖堂の宝物館の拝観順路も馬の蹄で示されていました。
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2009年10月05日

アーヘン「コウヴェン(Courven)博物館」

アーヘンのマルクト広場の近くにこの博物館があります。規模は決して大きくありませんが、ロココ調の家具を中心に暖房機等興味のある展示物にあふれていました。


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この小さな博物館には暖炉が多く展示されています。

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鋳鉄製放熱器です。

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厨房の調理と暖房をかねた暖炉です。

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装飾豊かな鋳鉄製暖炉です。
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2009年09月28日

アーヘンの町

アーヘンは現在のドイツでは最西部に位置します。ケルンから列車で入るのが一般的ですが、町の数箇所に温泉があり、保養地として有名です。ローマ時代からの温泉地としてフランク族のカール大帝がフランク王国を築き晩年を過ごした歴史的な由緒ある街です。続けてブログにご紹介しましたようにブルーノ・タウトの研究をしています。ドイツ人のブルーノ・タウト研究家としてシュパイデル教授が有名ですが、同教授はこのアーヘンに住みここを拠点としています。そのような事もあり、私はよくアーヘンを訪問します。


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大聖堂は旧市街地の中央にあります。9世紀初頭にカール大帝の礼拝堂として建設されました。16世紀まで神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が行われた由緒ある聖堂です。ゴシックとロマネスクを混合した様式をしており極めて珍しいものです。

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ドイツのどの町に行っても市庁舎の食堂(Ratskeller)で食事をすれば料金もまあまあで、内容も良く間違いがありません。アーヘンのRatskellerは市庁舎に隣接しツーム・ポストヴァーゲン(Zum Postwagen)と呼ばれます。郵便馬車という意味です。1657年創業とのことで、市民でにぎわっていました。

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14世紀に建設されたという市庁舎は大聖堂と広場を挟んで向かい側に建っています。

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アーヘンでは学問の都としてアーヘン工科大学が有名です。いかにも実験が行われているというダクト、配管を建物の外に配置した建築でした。尊敬するシュパイデル教授の研究室も此処にあります。

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アーヘンはカール大帝の町です。大聖堂に隣接する宝物殿ではカール大帝の金色の像が輝いていました。
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2009年06月01日

ヴァルネミュンデ

ヴァルネミュンデ(Warnemunde)はヴァルノウ河がバルト海に注ぐ河口の小さな町です。ロストックの外港でここからデンマークのゲッザーへ行く定期船が出ています。1972年ベルリンにおりました際にVWを運転し、東独のビザを取得しこの町からデンマークへ旅行したことがありました。当時は暗い町でしたが今では明るい観光地に変化しております。



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ヴァルネミュンデの港です。


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ヴァルネミュンデの建物です。


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ヴァルネミュンデの町の城壁の一部です。建物に市門が付いています。


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ヴァルネミュンデの木組み建築にもドイツ特有の上部の加重を三角形の形をした支えで受けて下部へ伝える方式が取られていました。この三角形部分には模様が施されているのが通常です。
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2009年05月25日

ヴィスマール

ヴィスマール(Wismar)はドイツ北部のバルト海に面した小都市です。ハンザ同盟都市のひとつでした。教会や市内の建造物はハンザ同盟都市の煉瓦建築を代表する良い例です。町並みがユネスコの世界文化遺産に指定されています。1648年にヴエストファーレン条約によりこの町は神聖ローマ帝国から支配権をスエーデンに移されるということがありました。スエーデンがその権利を放棄したのは1903年のことです。旧ソ連の駐留地が現在木材産業の拠点となっています。


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ヴィスマールの教会です。第二次世界大戦で破壊されたらしく再建中でした。


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ヴィスマールの市庁舎です。


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ヴィスマールの町並みです。


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ヴィスマールの港です。
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2009年05月18日

ロストック

ロストック(Rostock)はバルト海に面する旧東ドイツで最大の港湾都市でした。1218年ころに成立し、リューベック、ヴィスマールと並びハンザ同盟の主要都市でした。1419年には大学ができ、バルト海沿岸で最古の大学でした。第2次世界大戦で壊滅的な被害を受けましたが復興が進んでいます。筆者も1972年の旧東独時代に車を運転しこの町を訪問しました。当時は今と違い暗い感じで、旧東ドイツの国民警察(Volkspolizei)の車に後を追い回された経験があり良い感じを持っていませんでしたが、2009年4月の訪問で雰囲気はがらりと変わっているのに気がつきました。明るい町になっています。


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ロストック駅前の集合住宅です。これ以外にも町の規模からして集合住宅が多すぎるように思えます。東西ドイツ統合後若い人は旧西ドイツへ出て行ってしまい、住宅も空きが多いとの話もありました。


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ロストックの町並みです。やはり北の町である雰囲気が漂っています。


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ロストックの町でもイースターが近づくと卵、うさぎなどイースターに関係する飾りの販売が行われます。出店で行われる場合が多いようです。


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ロストックの市庁舎です。

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2009年03月23日

ベルリンの近郊リュバルス

ベルリンはドイツの大都市としては歴史の浅い町である。ところどころに先住民が住んでいた場所がある。このリュバルスもその一つで、茅で作った先住民の住宅の模型などもある。現在も牛や馬そして鶏と牧畜が盛んな場所である。ベルリンは東西ドイツが併合し大都市として発展をしているが、このようなのどかな場所がいたるところに存在するのは羨ましい次第である。


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リュバルス(Luebars)には動物が沢山います。馬も飼育されています。この馬は開店する道具の上をひたすら歩いています。さっぱり前進はしませんが、汗をかいています。

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リュバルスはベルリンの郊外ですが、目をやるとこのように荒野が広がっています。ところどころに池や湖もあります。

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リュバルスに残る先住民の竪穴式住居の模型です。日本に残る竪穴式とそっくりですね。

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馬術も盛んで乗馬学校もあります。
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2009年03月16日

ブレーメン

ブレーメン(Bremen)はドイツの北部ヴェーザー(Weser)河沿いにあり、ドイツではハンブルグ(Hamburg)に次ぐ大きな港町である。しかしヴェーザー河が北海に注ぐところにはブレーマスハーフェン(Bremershafen:ブレーメンの港)と呼ぶ町があり、第二次世界大戦で近隣諸国を震撼せしめた潜水艦ウーボート(U-Boot)が今でも係留されていて内部を見学する事ができる。ブレーメンは戦争の被害が少なかったので、多くの古い建築が残っている。


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ブレーメンでは「ブレーメンの音楽隊」が有名です。ブレーメンに行って音楽士になろうとしたロバ、犬、猫、ニワトリが結局ブレーメンには行けなかったという話ですが、その像が市庁舎の前にあります。ロバの足に触れると幸せになるという伝説があり、ロバの足だけ磨き上げたようになっています。

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ブレーメンの旧市街にはバロックの建築物が多数残っています。

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ブレーメンの市庁舎です。

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ブレーメンの旧市街です。

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ブレーメンには半円柱の形態の建物もあります。
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2009年03月02日

ヴォルプスベーデ(Worpswede)

ドイツの港町ブレーメンの北20kmにある。ブレーメンからはブレーマスハフェン行きの電車に乗っていく事ができる。電車は沼沢地を走って北へ進む。ここの沼沢地は悪魔の沼沢地(Teufelsmoor)と呼ばれ、恐らく開拓に大変な苦労を伴った地域なのであろう。

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ハインリッヒ・フォーゲラーの業績展示があるバルケンホフと呼ばれる住宅

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ヴォルフスベーデの村役場

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ヴォルフスベーデの民家

列車の進行と共に馬や牛の群れが時々姿を表しまた湖と池が見えては消え去っていく。ヴォルプスベーデ(Worpswede)は社会主義者の建築家であり画家でもあったハインリッヒ・フォーゲラー(Johann Heinrich Vogeler(1872〜1942))ら著名な芸術家が纏まって住んだ村として知られている。その伝統は今も引き継がれ現在も多くの画家、陶芸家、音楽家などが住んで活動を行なっている。

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ヴォルフプベーデの村には彫刻の屋外展示がある

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ヴォルプスベーデの屋外彫刻展示場

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ヴォルプスベーデの民家
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2009年01月12日

ルッターの町、ヴィッテンベルク(Wittenberg)

宗教改革を行なったマルチン・ルッターの町ヴィッテンベルク(Wittenberg)にはルッターが1517年に「95ヶ条の論題」を叩きつけた城の中の教会シュロスキルヒェ(Schloßkirche)がある。この扉は木製であったが、戦争で消失し、現在はブロンズ製で再建されている。市内には市庁舎やルターが度々説教を行なった聖マリエン市教会がある。

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ヴィッテンベルクの聖マリエン市教会(Stadt Kirche St. Marien)です。ここでルッターが説教を行ないました。

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ヴィッテンベルクの市内にある宗教改革者ルッターの銅像です。


現在世界を支配しているのはWASP(白人でアングロサクソンでかつプロテスタント)と言われるがプロテスタント発祥の地である。ヴィッテンベルク(Wittenberg)は現在正式にはルターシュタットヴィッテンベルク(Lutherstadt Wittenberg:ルターの町ヴィッテンベルク)と呼ばれている。


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聖マリエン市教会です。

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城内教会(Schlosskirche)です。この教会の扉に1571年ルッターは「95ケ条の論題」を叩きつけ宗教改革を行ないました。

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ドイツ鉄道(Bundesbahn:DB)の駅にもルッターの町ヴィッテンベルク(Lutherstadt Wittenberg)と書かれています。

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2008年12月22日

テンペルホーフ飛行場2

西側の大空輸作戦により、これが「空の橋」と呼ばれた。このモニュメントは現在もテンペルホーフに建っている。2008年初頭ベルリン市は乗降客の減少、空港が市の真ん中にあることによる騒音問題、維持費が年間1,000万ユーロにも達することから閉鎖を決めた。しかし市民から反対運動が起こり、市民投票に掛けられた。

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冷戦の際に西側がDC3型機を使用して大空輸作戦を行いました。当時の西ドイツ政府も西ベルリンに対し、ベルリンと西ドイツ主要都市との飛行運賃に半額補助をするなどをして西ベルリン人口減少を食い止めました。これは「空の橋」のモニュメントです。

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2008年4月に行われたテンペルホーフ飛行場の存続を問う市民投票に賛成を呼びかける看板も多くベルリン市内に建てられました。

これは2008年4月に行われたが投票率が低く市の案のように閉鎖が確定し2008年10月30日多くの市民に惜しまれて閉鎖された。今後は現在のシェーネフェルド飛行場がベルリン国際空港として再整備される予定と聞く。テンペルホーフは住宅になるという説やスポーツ施設が出来るという説もあるが正式決定はされていない。

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市民投票に際し、存続に賛成を呼びかける立て看板

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テンペルホーフ飛行場には大空輸作戦当時の絵が残っています。J. F. ケネデイ−がテンペルホーフ飛行場に降り立ちシューネベルク市庁舎前で、「愛するベルリンの皆様、私も自由の名においてベルリン人であります!」とドイツ語で演説し、市民の喝采を浴びたことがありました。今この広場はケネデ−広場となっています。
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2008年12月15日

テンペルホーフ飛行場1

第二次世界大戦後の冷戦で、ソ連がベルリンを封鎖した際に西側による物資の空輸大作戦を行った拠点はテンペルホーフ飛行場であった。1923年に開講された歴史ある飛行場であった。この飛行場が2008年10月30日、85年の歴史に幕を下ろした。

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2008年10月30日に閉鎖されたテンペルホーフ飛行場

戦時中は軍用飛行場として使用され、筆者も1971年から73年までベルリン市に居住したので何回もこの飛行場を利用した。当時はジャンボも飛ばず、飛行機は大きく張り出したテンペルホーフの屋根の下に停止、客の乗降を行った。

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2008年10月30日に閉鎖されたベルリンのテンペルホーフ飛行場には中央飛行場の看板が残る。

これはヒットラーの案だったそうであるが、雨の日も濡れずに乗降ができた。東西分断の70年代には年間580万人が使用した。まさに主要空港であったが最近は定期航路はブリュッセル行きくらいで、多くはチャーター便であった。

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1970年代いつも多くの人で賑わったテンペルホーフ飛行場も閉鎖直前は人もまばらであった。

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テンペルホーフ飛行場の最寄りの地下鉄駅「空の橋」駅も飛行場閉鎖が決まり人もまばらになった。
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2008年09月22日

ワイン通りのノイシュタット4

私の宿泊した5月1日は労働者の祭日で国民の祝祭日です。従って一般の商店は店を閉め営業はしていません。その代わり、ショーウインドーは立派にし、ウインドーショッピングを楽しんでもらう努力をしています。

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ノイシュタットの商店

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ノイシュタットのワインとビールを売る店です。

ベルリンやフランクフルト等の大都市でショーウインドーを立派にするのは判りますが、地方都市でも立派にしているのには感心をします。

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ノイシュタットの食堂です。

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ノイシュタットの商店の壁画です。

日本の最近の地方都市ではシャッターが閉まりきりという店も残念ながら多くなっています。どうして地方都市に活力を発揮させるか、この街から学ぶべきことも多いかと思いました。

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ノイシュタットのワインとビールを売る店です。
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2008年09月15日

ワイン通りのノイシュタット3

ドイツの古い町では住宅や店舗にその建物を象徴する飾りが付いています。これを見るだけでも結構楽しいものがあります。一方公共用トイレも街中にあります。ドイツではトイレは大概有料です。

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子供を対象としたお店です。

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花嫁衣装を販売する店です。


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婦人服専門店です。

無料なのはレストランやホテルくらいで、駅でも百貨店でも有料です。男性用はHerren(ヘーレン)女性用はDamen(ダーメン)と書いてあるものですから、まず、男性用に行き“入れないのか“次に女性用に回ったら”ダメ“と書いてあるので、困ってうろちょろした。という話もあります。

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婦人服専門店です。

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靴屋さんです。

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子供服専門店です。

客を接待する際に良いレストランか否かを見極めるのにまずトイレを借りて、極めて清潔に維持されていれば合格という判断基準もあるそうです。

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文房具店です。

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ノイシュタットの有料トイレです。
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2008年09月08日

ワイン通りのノイシュタット2

ノイシュタットには鉄道の博物館が駅のすぐ傍にあります。鉄道ファンにとっては見逃せません。
蒸気機関車のボイラ内部、熱交換器の部分も見せるなど、面白い工夫も見られました。

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ノイシュタットの鉄道博物館です。

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蒸気機関車のボイラ、熱交換器のチューブまで見えています。

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鉄道博物館に展示されている蒸気機関車

当時ミュンヘンにあった汽車製造会社が1883年に製造した蒸気機関車や駅舎で暖房用に用いられていた暖炉の展示、3等車よりさらに下級の列車など面白い展示が見られました。

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鉄道博物館に展示されている蒸気機関車

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鉄道博物館の客車

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ミュンヘンで製造された蒸気機関車

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楽しい蒸気機関車

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駅舎の暖房に使用された鋳鉄製の暖炉
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2008年09月01日

ワイン通りのノイシュタット1

ワイン通りのノイシュタットは私の好きな町の一つです。木造木組みの住宅も沢山残っています。古い市街は・・・ガッセ(Gasse)と呼ぶ小路があり旅行者の良き散歩道になります。

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ノイシュタットの町には結構古い建物も残っています。

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ノイシュタットの木造木組みの建物

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ノイシュタットのリフォームが行われた木造木組み住宅

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ノイシュタットの木造木組み住宅の窓

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ノイシュタットのガッセ
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2008年05月19日

ハイデルベルク

昔から学生の街として知られるハイデルベルク。ゲーテやショパン等多くの芸術家がこの街を訪問し、この町を褒め称えました。

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ハイデルベルクの古城。

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ハイデルベルクのマルクト広場(Marktplatz)から見たハイデルベルクの古城です。

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とうとうと流れるネッカー河にかかる古く美しい大橋。赤いレンガの町並み。ハイデルベルク城からの眺めです。

ワインの産地としても知られ、芳醇なワインを飲むことも出来ます。

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いろいろの伝説があるハイデルベルク城。赤い砂岩でできています。

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ハイデルベルク城の天井の装飾です。

ハイデルベルク大学は1386年創立、ノーベル賞受賞学者8人を出しました。大学の自治はここから出、治外法権は守られています。

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ハイデルベルク城には豪華なカッヘルオーフェンがありました。

お城が丘の上に立ちお城から見る町の眺めが素晴らしい、私の好きなドイツの町の一つです。

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ハイデルベルクのハオプト通り(Hauptstr.)は旧市街のメインストリートです。これを歩いていくと聖霊教会(Heiliggeist-Kirche)に出会います。この周辺は何時来ても観光客で賑わっています。

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ハイデルベルク城の中にあるカッヘルオーフェン(Kachelofen)。右側は段状になっておりここに座ることで、直接的な暖房もできた。本来は化粧レンガの表面からの柔らかい放射熱で暖房を行うものである。
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2008年05月12日

Stuttgartにて

2007年6月24日からStuttgartで5泊しました。駅頭には以前なかった馬が沢山飾られていました。

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Stuttgartの駅頭にはやたらと沢山馬の像が立っていました。

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青い色をした馬もStuttgartの駅頭に立っていました。ご参考まで日本で「青」は黒毛の馬を言います。

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屋外にも馬が立ち小生の到着を歓迎してくれました。

私がベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所に留学していた1971年〜1973年ご一緒したミカエル・シュミットさんが現在Stuttgart大学の教授として暖房、空気調和の講座を担当されています。

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彩色のない馬もいました。

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斑点模様の白馬もいました。日本では白馬を芦毛の馬と言います。

ご夫妻で駅に迎えてくださり、旧交を温めることが出来ました。二人の話題は「ベルリン時代がお金はなかったが一番楽しい時代だった!時間の過ぎ去るのが早すぎる」という事でした。

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ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所に留学時代一緒に過ごした友人シュミットさんご夫妻と私のStuttgartの定宿”Riedsee”で乾杯し旧交を温めました。
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2008年04月07日

ミルテンベルクのホテルリーゼン

フランクフルトからマイン河を80 km程遡ったところにミルテンベルク(Miltenberg)という町があります。ここでマイン河が大きく蛇行するので航行する船から通行税を徴収するのに具合が良かったようです。

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リーゼンの客室はかってここに泊まった重要人物の名前が付いています。この部屋は12号室ですが、フリードリヒI世の部屋になっています。他にマリーアントワネットの母親であるマリアテレジアの部屋もあります。

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リーゼンの客室。近代のホテルは各部屋の規格を同一にすることでサービスの効率を上げています。この宿は古すぎて、各部屋の構成は全て異なります。共通点はテレビは置かないこと、インターネットサービスは無いことくらいでしょう。

ここに私がよく宿泊するリーゼン(Riesen)と呼ぶホテルがあります。1158年に建設され現在でも営業を行っております。日本で言うと平安末期になりますから大変な事です。

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リーゼンの客室です。柱、梁は太い材木が使用されています。主要構造が材木であることにより、1158年に建設されたホテルが現在でも使用されています。

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リーゼンの1階受付です。天井には太い材木の梁が使用されています。

スケルトンフィルのような建て方であったため、本来無かった中央式暖房や、エレベーターを設備することが出来たそうです。このホテルは歴史に出てくる有名人が多く宿泊しています。

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リーゼンの一階エントランス部分です。柱、梁の主要構造部は太い木材が使用されています。

「宿帳でもあったのですか?」とホテルのオーナー、イエルグさん(建築家でもあります)に聞きますと「宿帳は残っていないが、町役場に訪問者の記録があり、昔は町にこのホテルしかなかったのでリーゼンに泊まったのである」との説明でした。

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フランクフルトからマイン河を80 km程遡るとミルテンベルク(Miltenberg)という町があります。ここにリーゼン(Riesen)という1158年に建設されたホテルがあり、現在でも立派に営業をしています。1158年と言うと平安末期ですから大変な事です。私はよくここに宿泊しますが、2006年にファッサードの大改修をしました。このように古い建物も適宜改修を行うことで、保全が行われています。

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日本式で言うと4階にある食堂です。主要構造部が木造であることが分かります。

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リーゼンの客室へのエントランスです。現在では右の放熱器でお分かりのように温水暖房が施されています。昔は無かったはずです。
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2008年03月31日

ミルテンベルク

2007年3月にかってのベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所で共に学び仕事をした仲間が同窓会を開き、フランクフルトの暖房と衛生の国際博覧会ISHを見学した後ミルテンベルクのホテルリーゼンで2日間合宿を行った。

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ミルテンベルクのホテルリーゼンとマイン河を挟んだ反対側に修道院(Kloster)があります。最後は急斜面になっていて結構きつかったですがみんなで登りました。

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修道院から眺めたミルテンベルグの町です。屋根の色が統一されていて綺麗です。左をゆっくり流れるのがマイン河です。マインツでライン河に合流します。

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修道院(Kloster)へ登る道にはキリストの受難の像が並びます。この前で胸に手を当てて十字を切りながら登る人もいます。

小生も招待を受け日本から駆けつけ昔の懐かしい面々と再会を果たした。夜は午前2時まで近くのビアホールで歓談、昼間は宿とマイン河を挟んで反対側の丘に建つ修道院へハイキングを行った。

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キリスト受難の像

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修道院に登り、皆でビールで乾杯しました。修道院でビール?いえ修道院でしっかり地ビールを作っているのです。ミュンヘンで美味しいビールも修道院で作られます。

ドイツの大学で同窓会は珍しいそうで、小生のいた研究所がむしろ変わっていると言ってよいそうである。

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Maria Hilf Wegとあります。マリア様の道、すなわち修道院に上る道は結構急傾斜なのです。日本の山寺に登る際も「男坂」、「女坂」があるようにここでもマリア様の道は傾斜が緩いが距離が長いという道です。日本もドイツも発想は同じですね。
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2008年03月24日

木を使う

地球温暖化ガスである二酸化炭素の排出を減少させることが急務になっています。ドイツではそのために「木」を使うことに一生懸命です。

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木を燃焼させて採暖する、調理を行うと言うことは原始時代から行われていました。(CelleのBoman 博物館)

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このような暖炉でも燃料は薪でした。

木は森林で生長しているときに二酸化炭素を吸収して炭素として取り込みます。これを燃料にしようとし、薪として使用、ペレットとして使用することが流行しています。

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カッヘルオフェンは過去の暖房機と見られますが、薪を燃料として使用するのに具合がよいことからまた見直されています。

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2007年3月にフランクフルトで開催された暖房と衛生の国際見本市ISHでカッヘルオフェン(Kachelofen)が薪の燃焼に良いとして展示されていました。

ペレットを作るときも木の持っているリグニンで接着させ決して人工の接着剤を使用しないのが原則だそうです。
ドイツの木を使うことで、ドイツの林業を活性化させようと言うのが彼らの主張です。我が国においても同じ事がいえます。

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豪華なカッヘルオフェンも薪を燃焼させて展示されていました。

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ドイツの材木屋さんです。左にあるのがペレットです。ペレットをストーブの燃料として使用することが薦められています。
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2008年03月17日

ホンベルクの門扉その3

門扉の写真を撮影したらとても2報では納まらない量になってしまいました。やや冗長な管もしますが、ここに第3報をご報告いたします。すべてホンベルクで撮影したものです。

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これはガレージの門扉です。この扉を開けてVWが出てきました。

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木造の門扉です。

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木造の門扉ですが、なかなか堅固そうに見えます。

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これはホンベルクの民族博物館に展示されていた門扉です。

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堅固な木造の門扉です。

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農園へ入る門扉です。
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2008年03月10日

ホンベルクの門扉その2

昔から安全な町であった日本ではつい最近まで門に鍵も掛けずに生活をしていました。ドイツは東西・南北に人々が通過する地点にありました。それだけに他人に対する警戒はしっかりしていました。また門を入れば自分の生活があるとして門をしっかり作ったのでしょう。先週に引き続きホンベルクの門扉をお見せします。

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木造の相当古くなった門扉

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ルネッサンス調の住宅門扉

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整然とした模様のある住宅門扉ここは何家族かで住んでいるようで、沢山の呼び鈴が付いていました。

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農耕車でも出入りしたのでしょうか、背の高い門扉です。

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やや近代的な住宅の門扉です。

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やや楽しそうな門扉です。玄関にも花が飾ってあり、ロマンチックに生活をしているように見受けられます。

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ふくろうの顔といわれそうな門扉です。

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一般住宅の門扉です。
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2008年03月03日

ホンベルクの門扉その1

最近日本の住宅の扉はサッシメーカーの工場生産品を使用する場合が多くなっています。性能は良くなりましたが、変化が少なく面白味に欠けます。ドイツの町を散歩しますと、特に古い町では興味深い門扉を多く見ることが出来ます。ホンベルクも古い町ですので、面白い門扉に遭遇することができました。ここにいくつかの門扉をご紹介いたします。

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Stadt Cassel(カッセル市)という看板を掲げた家の門扉です。Casselは今のKasselです。Ab nach Kasselという言葉があります。本来は「逃げろ!」「失せろ!」という意味ですが、時々おかしな翻訳に出会います。「カッセルへ向けて出発だ!」という訳に出会ったこともあります。なぜそういうのか何人かの識者に聞きましたが、はっきりした説明を受けていません。

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木造の門扉です。

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市民の家の門扉です。木造ですが、簡単なことでは窃盗犯も侵入できないでしょう。

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これも木造の門扉です。中世の騎士が出入りするような門にも見られますね。

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金属製の門扉です。なかなか堅固に出来ています。
上部は磨りガラスが入っています。

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一般庶民住宅の門扉です。上部のガラスは例え室内で照明がついていても、外部から内部は見えない、しかし室内から外は見えるという仕掛けがあります。

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最も堅固にみえる門扉の例です。散乱銃も突き抜けないかも知れませんね。
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2008年02月11日

ホンベルク(Homberg)

ヘッセン州にホンブルクという町がある。ここに郷土博物館があり、ドイツの伝統的な暖房器具の展示があるというので、出かけてみたかった。

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ホンベルクの町の中心部。中世の面影を残す建物が並ぶ。一方で修復工事も盛んである。

初めての町に出かけるときにドイツ鉄道のインターネットで調べると町の名は出てきて鉄道の連絡も分かる。しかしこのホンベルクは例外であった。

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ホンベルクの立派な木造木組み住宅。柱、梁は太い材木が使用され、長い風雪に耐えてきました。

地図で見るとカッセル(Kassel)の南約50 kmの所にあるのだが、昔あった鉄道も廃線になりWabernという鉄道の駅からバスで入るようである。Wabernの駅に降り立ちバスの時刻表を見ても一日に数本しかバスは来ない。やむなくタクシーでホンベルクを訪問、観光局から予約してあった宿に投宿した。

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ホンベルクの町の郷土博物館。担当者が指定された時間に迎えに来てくれた。説明も大変に丁寧であった。

ここの観光局は至れりつくせりで約束の時間に郷土博物館を訪問すると案内人が出迎えてくれ丁寧に説明をしてくれた。町の高いところに城跡がある。高いところにある城という意味からHohenburgと呼ばれ、町の名前Hombergもここから来たそうである。

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ホンベルクの町の中心にある聖母教会(Marienkirche)は修復中であった。町のあちこちで建物の修復が行われている。

1526年に町の中心にある教会(聖母教会:Marienkirche)でヘッセン公爵フイリップT世(PhilippT世)がホンブルグ司教会議を開いたとのことである。

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ホンベルクのお城ホンブルク(Homburg)は町の高いところにあります。この結果水飢饉にあったのでしょう。お城には150mの深さの井戸があります。お城から見た町の風情です。町の中心部は中世の佇まいを残していますが、その周辺は一般の町と同様近代住宅が建ち並びます。

しかし高い場所にあることから水飢饉により町は何度も危機に襲われたそうである。現在は木造木組の建物が多数残る、中世の面影を残す静かな町になっている。

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ホンベルクの城跡Homburgここに150 mの深さの井戸があります。
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2008年02月04日

ツェレ(Celle)の木造木組建物

ツェレ(Celle)には、どんな路地に入ってもカラフルな木造木組の建物が残っている。まるでおとぎの国に飛び込んだような錯覚に陥る。昔と同じように修復も行われ、おとぎの町を現在に伝えている。この町に来ると時間の経つのを忘れてしまう。この町が歴史に現れるのは西暦900年になってからである。かっては今のツェレの中心から3 km程離れた現在”古いツェレ(Altcelle)”と呼ばれるところにあった。リュ−ネグルグのハイデに入る町としても有名である。

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ツェレの町は戦災を受けましたが多く木造木組みの建築があった町でした。現在は昔と同じように復旧されて町並みができています。

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左の手前はモダンな靴メーカーのチェーン店です。伝統的な建物に上手く納まっています。

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再建なった木造木組の建物です。太い柱で2階を支えています。木は乾燥して使用すれば永久に使用することが出来ます。地球温暖化ガスである二酸化炭素排出削減のため木造建築のさらなる普及が大切であります。

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木造木組の建物が建ち並ぶツェレ(Celle)の町、ここは急いで走る必要はありません。馬車が似合います。

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ツェレ(Celle)の町に建つ建物です。
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2007年12月31日

ドレースデン その2

小生が1971年−1973年に学んだベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所は暖房や換気を学問として体系づけたヘルマン・リーチェルを記念して作られた研究所です。ヘルマン・リーチェルも有名な彫刻家エルンスト・リーチェルの子息としてデレースデンに生まれ、ドレースデンで育ちました。エルンスト・リーチェルはワイマールのゲーテ・シラー像やヴォルムスのルッター像の作者として有名ですが、出身地のドレースデンのエルベ河畔に氏自身の胸像があります。

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エルベ河畔の彫刻家エルンスト・リーチェルの胸像

少し専門的になりますが、冷凍機の設計などで用いられるモリエー線図のモリエーもドレースデン工科大学の教授でした。中央駅も最近立派に復旧しましたが、少し中心をはずれると復興が遅れている街区も目に付きます。

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エルベ河を行く観光船

ドレースデンが栄えたのもウィーンに近く、ハプスブルグ家の影響が強かったからと言われています。アングロサクソンは民族大移動の時にこのザクセンから移動していったとも言われています。

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ドレースデンのオペラ座

第二次大戦でドイツがお手上げになり終戦間際に英国が民間人も差別なくドレースデンを攻撃したのも人種が近いほど憎しみも増すという説もあります。

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ドレースデンの見張り所(Wache)衛兵がいたそうです。現在はカフェーになっています。この建物はベルリンで活躍した建築家シンケルの作品です。
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2007年12月24日

ドレースデン その1

ドレースデンはザクセン州の州都です。つい先日同州のミルブラット首相(Prof. Dr. Georg Milbradt)が来日され、2007年10月2日にお話をする光栄に浴しました。地球環境問題と新エネルギー利用に造詣が深く、しかしさらに建物の斷熱による省エネルギーが一番効果的であると言うことを強調されました。

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再建なった聖母教会

ドレースデンは旧東独で第二次大戦の戦災復旧が遅れていましたが、統一後は重点的に復旧工事が行われ、再びエルベ河のフローレンスとして美しい姿を現しています。Frauenkircheという聖母教会は英国軍により徹底的な破壊を受け長い間教会外壁の破片が黒くなって現場に積み上げられた状態でした。

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エルベ河畔のドレースデン。一番高い建物が世紀のパズルと言われ、再建なった聖母教会

これが世紀のパズルと呼ばれ、どの破片とどの破片が繋がるという気の遠くなるようなジクソーパズルにより、番号が付けられ、2005年に元の姿に戻りました。ドイツ人の根気と執念には脱帽いたします。

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ザクセンの君主が住んだツヴィンガー宮殿(Zwinger)

ツヴィンガー宮殿は後期バロック建築として歴代の君主が集めたコレクションを見ることが出来ます。特にアオグスト強王が1717年に作った陶磁器の博物館は有名です。アオグスト強王は東洋の白磁にあこがれ、これをザクセンでも作るようにしました。これがマイセン陶器です。

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Zwinger宮殿

ツヴィンガー宮殿の陶磁器博物館には伊万里や九谷のコーナーもあり、多くの日本の陶磁器が陳列されています。町の中では君主の行列が描かれた壁画も有名です。

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Zwinger宮殿中庭

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君主の行列を描く壁画

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2007年11月19日

ヴォルムス(Worms)

ドイツの町ヴォルムスと言ってもご存じない方が多いでしょう。世界史には時々登場する町ですが、敢えて観光でこの町を訪問しようという人は多くないでしょう。フランクフルトから南に100 kmほどの処にあります。

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ヴォルムスの町は城壁によって囲まれていた。

1122年にこの町でヴォルムスの協約が結ばれています。当時の欧州はキリスト教国家でありました。教会組織が実権を握っていました。聖職者はラテン語を勉強するなど、教養も高かったのです。一方世俗諸侯も存在し、その頂点が皇帝でした。皇帝と教皇との権力争いはあちこちで起き、この協定がヴォルムスで行われたと言われます。またローマ教会に反旗を翻したマルチン・ルターはヴォルムスの勅令によって1521年5月に帝国追放刑にあっています。

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ヴォルムスの町にあるルター記念像

しかしルターは勅令が出されるより前にチユーリンゲンの森で覆面の騎士にさらわれるという形で、守りの堅固なヴァルトブルグ城に連れ去られ、フリードリッヒ王にかくまわれます。ここで、ルターはギリシャ語の聖書を独訳し、グーテンベルグの印刷術を使用して世界に聖書を広めます。

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ヴォルムスの町の大聖堂(ドイツでは珍しいロマネスク様式)Dom St. Peter
(同じ写真がありますので、これと交換してください。)

この町はルターとゆかりが深いことからルター記念像(Lutherdenkmal)、ドイツでも数少ないロマネスク様式の大聖堂Dom St. Peterがあります。またユダヤ人が多く居住していました。最古のユダヤ人墓地もこの町にあります。1076年と記された墓標が残っています。

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ヴォルムスの町に残るユダヤ教会

ルター記念像は彫刻家エルンスト・リーチェル(Ernst Rietschel)によって造られました。ワイマールにあるゲ−テ・シラー像と共に氏の代表作であります。エルンスト・リーチェルの子息がヘルマン・リーチェルで、職人の技であった換気や暖房を学問として体系づけた方でベルリン工科大学教授となり、大学には氏を記念してヘルマン・リーチェル研究所があります。筆者はそこで、1971年〜73年の間客員研究員として在籍させていただき、その間に得た交友関係は大変に得難いものと感謝している次第です。

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ヴォルムスの町にあるユダヤ人墓地
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2007年11月05日

ダルムシュタット

平成19年7月16日のブログでダルムシュタット(Darmstadt)のフンデルトヴァッサーハウスをご紹介いたしました。この町はフランクフルトから南へ40 km程度の処にあり、高架鉄道S-Bahnで行っても40分ほどで着いてしまいます。

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ペーター・ベーレンスが設計したベーレンスハウス

この町には工科大学があり、ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所で1971年から1973年の間、師事致しましたエスドルン教授(Prof. Horst Esdorn)も、その前任者のライス教授(Prof. Wilhelm Raiß)もダルムシュタット工科大学出身でした。

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オルブリヒ設計の結婚記念塔

という事で、何となく憧れていた町でしたが、ここはヘッセン・ダルムシュタット大公国の首都であっただけに立派な建物が残っています。最後の大公エルンスト・ルードヴィッヒ(Ernst Ludwig)が芸術家を擁護し芸術家の村を造ろうとしました。これは19世紀末から20世紀初頭にかけての事でした。


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華麗な建築「オルブリヒハウス」

芸術村の中心地はマチルダの丘(Mathildenhöhe)でここに来るとユーゼフ・マリア・オルブリヒがルードヴィッヒ大公とマチルダ妃の結婚を祝して1908年に建造した結婚記念塔やペーター・ベーレンスが設計したベーレンスハウス、オルブリヒが設計したオルブリハウスなどを見ることが出来ます。

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19世紀末に建造されたベノイ設計のロシア教会

これはユーゲントシュティール(Jugendstil)に分類されます。ユーゲントシュティールはフランス語ではアール・ヌーボーと言います。我が国ではフランス語の方が一般的かも知れませんね。これ以外にもマチルダの丘ではロシア教会が有名です。
これだけユーゲントシュティールの建築がかたまって残っている場所も他になく、興味深い場所と申せましょう。

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休憩所
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2007年10月15日

ブランデンブルグ門

1788年−1791年に建築家カール・ゴットハルド・ラングハンス(Carl Gotthard Langhans)により建設された。ベルリン市を象徴する建造物で、プロシャ王国の凱旋門の役割を果たしました。アテネの神殿の門を手本にして作られ、ドイツ古典主義の代表作であります。後にベルリン市を形作る多くの建造物を残した建築家カール・フリードリッヒ・シンケル(Karl Friedlich Schinkel, 1781年−1841年)ギリシャ建築を基本とする新古典主義を展開しましたが、その手本ともなった建造物であります。

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「平和が戻ってきたブランデンブルグ門」

門の上には勝利の女神と4頭立ての馬車カドリガ一旦プロシャを破ったナポレオンにパリに持ち帰られましたが、1814年ベルリンに戻りました。門の奥行きは11m、柱の高さは14mでギリシャのドーリア様式ではありますが、プロポーションは実物より細長くできています。

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ブランデンブルグ門の4頭立馬車と勝利の女神

建設されている場所はパリザープラッツ(パリ広場)ですが、西側から見るとベルリン市一番の繁華街ウンターデンリンデンに繋がっています。東西冷戦時は丁度ブランデンブルグ門に沿ってベルリンの壁が築かれていました(この壁の建設されていた場所は現在も白い線で示され、場所がわかるようになっています)。ブランデンブルグ門そのものは当時東ベルリン側に入っていました。西ベルリン側にはお立ち台のようなものが出来、そこから東ベルリンの生活が覗けました。

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ブランデンブルグ門の近くには東西冷戦時代に東から西へ逃亡を企て失敗し、殺害された方々の墓標が立ち並びます。

当然東側の国境警備隊が立ち、国境地帯に侵入すれば直ぐに襲ってくるシェパードも放し飼いにされていました。それでも時々西側のお立ち台から東の親戚であろうか、時々手を振り合う人々もいました。今はベルリンの観光名所のひとつで、車もブランデンブルグ門を行きかい平和を謳歌していますが、筆者がベルリンに居住していた1971年から73年はまさに緊張のど真ん中にあったのです。東から壁を乗り越え西側の逃亡しようとして失敗した人々の墓標がブランデンブルグ門の西側に今でも建っています。

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「ハインツ・ソコロヴスキーさん48歳は東から西への逃亡が発覚され東ドイツの刑務所に7年間収容され、1963年11月25日に処刑された」と記された墓標
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2007年09月17日

駅舎

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ベルリンのS-Bhan(都市近郊電車)メキシコ広場の駅舎

最近通勤電車で人を押したとか、足を踏んだとか、携帯電話を止めろとか、大した事でなくても怒鳴りあい、場合によっては殴るなどの暴力沙汰が増えています。

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ベルリンの地下鉄ダーレムドルフの駅舎

家族関係がうまくいかないのか、会社へ出ても仕事が面白くないのか、皆様イライラして通勤をしているようです。ひどい場合は電車に飛び込んでしまう人まで現れる状態で、これが原因で列車は遅れます。

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ベルリンの地下鉄チールプラッツの駅舎

ドイツの都市の通勤電車を見ると乗客も少ないせいか、少なくとも車内での暴力沙汰や罵声を浴びせるなどと言うことはありません。駅舎を見ても首都ベルリンの場合、どの駅も極めて風情があり、ロマンチックであります。

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ベルリンの地下鉄ポドビルスキアレーの駅舎

その駅舎のいくつかを写真で紹介しますが、このような駅舎から乗り降りしているとイライラするような事も少なくなるのかもしれませんね。

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ベルリンの地下鉄ブライテンバッハの駅舎

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2007年08月27日

ライン河

ライン河は流量が豊富で、ゆっくり流れ、流量は年間を通じて安定しています。河川の最大流量を最小流量で除した数値を河川工学では河状係数と呼んでいます。河川の安定度を示す数値であります。

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ゾンネック城(Burg Sonneck)

同じ河川でも場所によりこの数値は異なるので、地名が必要になります。ライン河の流れるケルンでは16であるのに対し、利根川(栗橋)は850、比較的穏やかに流れているように見える淀川(枚方)で104であります。

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ライヒェンシュタイン城(Burg Reichenstein)

年間の平均流量もライン河(ケルン)で2000トン/毎秒であるのに対し、利根川(栗橋)は171トン/毎秒、信濃川(大河津)は477トン/毎秒であります。日本の河川は主に畑の感慨に使用されたのに対し、ライン河は船舶の航行に使用され物資の運搬に役立ってきました。それだけにあちこちに通行税を取り立てる関所もあったのです。

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シュトレック城(Burg Stohleck)

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ラインシュタイン城(Burg Rheinstein)

ライン河に沿っては中世の城が非常に多く残っています。マイン河とラインが合流するマインツからモーゼル河が合流するコプレンツまでラインを下るとラインシュタイン城(Burg Rheinstein)、ライヒェンシュタイン城(Burg Reichenstein)、ファルツ城(Pfalz)、猫城(Burg Katz)、マルクス城(Marksburg)などを見ることができます。これらはラインを行き交う船に通行税をかけようとする諸侯の思惑もあり、切り立った崖や山腹に造られた城(Burg)です。

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ライン河で通行税を取り上げた猫城(Burg Katz)

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2007年08月20日

マインツ

マイン河がニュルンベルク、バイロイト、ヴュルツブルク、ミルテンベルクそしてフランクフルトを経てライン河と合流する町がマインツです。中世ドイツの首都でありました。ローマ時代以来軍事・交通の要所でありました。
4世紀には司教区が置かれ、ボニファーチウスがマインツ初代の大司教になっています。中世にはマインツの大司教は7人の選帝侯の筆頭でありました。神聖ローマ帝国の文化的な首都の観を呈していました。赤っぽい砂岩でできた大聖堂は、ドイツの3大ロマネスク建築の一つであります。

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マインツの赤砂岩でできたロマネスク様式大聖堂

またこの町は可動式活字による印刷術を発明したヨハネス・グーテンベルク(1400年頃〜1468年頃)の出身地であります。当時は手書きで行われたものが印刷されるという事は、現在のインターネットの出現と同じく情報革命でありました。マルチン・ルッター(1483年〜1546年)がギリシャ語の聖書をドイツ語に訳し、これがグーテンベルクの印刷機で印刷され、部族ごとに異なっていたドイツ語も統一されたと言います。

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マインツにあるグーテンベルク博物館には氏の作成した活版が保存されています。


グーテンベルクは印刷機、活字を作るため銀行家フストから借金をします。そしてフストにうまく儲けられます。グーテンベルクは印刷機の秘密が漏洩しないように隠れ家で仕事をしますし、うまく金儲けをするフストはゲーテの大作ファウストのモデルであるとの説もあります。

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可動式活字による印刷機を発明したグーテンベルクは聖書を普及させる、ドイツ語を統一させるなど当時の情報革命の担い手でした。しかしゲーテのファウストにも出てくるような波乱に富んだ人生を送った人でもあります。グーテンベルクはマインツの人でした。
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2007年06月04日

カールスルーエ

少し古い本になるが、崎村茂久さんという方が書いた「ドイツと日本−体験的ドイツ論(三修社、1978年)」を読んだことがある。カールスルーエの郊外に14年間住んでの体験が書かれており、興味深く、一気に読んでしまった。

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カールスルーエ城

中にカールスルーエの市民公園に上原教授のもと、日本から来た庭師と共に日本庭園を造る話がある。1971年〜1973年までベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所の客員研究員していた頃知り合った友人でマンフレド・ボヤシェブスキ−(Manfred Bojaschewsky)というベルリンの高等学校(ギムナジウム)で物理の教師をしていた男がいる。もうリタイアし年金生活であるが、リタイア近くに念願の結婚を果たした。しかし夫人はカールスルーエに職があり、マンフレッドはベルリンに住宅を持っている。そこでお互いにベルリンとカールスルーエを行ったり、来たりの生活を送っている。

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カールスルーエの最高裁判所建物の一部、かつて左翼の襲撃があったので、警備が固い

そんな関係で、筆者はマンフレッドがカールスルーエにいるときは彼をそこに訪ねる。崎村さんも造園に加わった日本庭園は確かに市民公園の中にあり、なかなか立派な物である。カールスルーエはカール・ヴィルヘルム伯が1715年に現在に城を築いてからの町であるので、古い町とはいえない。人口273,000人、面積173.46km2で大学が6校もある。

カールスルーエには最高裁判所と憲法裁判所があり司法の最高機関の町と言うことになる。日本は立法、行政、司法の三権の最高機関はすべて首都である東京にあるが、ドイツは連邦国家のため立法はベルリンに司法はカールスルーエに、行政は主にベルリンとボンに分散されている。また、中央銀行はフランクフルトにある。すべてを東京に集中させている日本は効率がよいのか、それとも東京に万一のことがあった場合は日本全体が破滅と言うことにも成りかねないという危険性を背負っているのか。

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カールスルーエ工科大学、ハインリヒ・ヘルツ(1857〜94)は同大学の教授を務めた

カールスルーエに最高裁判所があることから、カールスルーエ大学の法学部は優秀なのかとも思っていたが、実はそうでなく、工科大学が良いのだそうである。周波数の単位であるヘルツの元となったヘルツ教授はカールスルーエ大学の教授であったそうである。
我が国では首都圏と地方との格差も問題になっているが、ドイツは地方都市がしっかりしており、格差を感じない。人口237,000人の町に博物館が17、劇場が10存在している。カールスルーエの城は扇状に広がり、32の道が軸をなして広がり町を形成している。城の公園は市民に公開され、小型の蒸気機関車が子供たちを乗せて歓声の中、煙を上げて走っていた。
国家権力をすべて中央に集中する方式がよいのか、ドイツのように分散する方式がよいのか、首都移転問題も含めて考える必要があろう。

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カールスルーエ城の公園を子供の歓声に包まれて走る小型蒸気機関車

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2007年03月05日

黒い森シュバルツヴァルト

南ドイツにある黒い森シュバルツヴァルトが一時酸性雨で枯れていくというニュースが流れた。しかし幸いにこの問題も改善方向に進んでいる。ドイツでの環境保護と森を大切にする運動による成果である。このシュウバルツヴァルトの北の一角、バーデン・バーデンは欧州きっての高級保養地でフロンテイ―ヌ丘陵から湧き出すミネラルを含有する温泉を求めて常に金持ちの観光客で賑わっている。クアハウスという建物があるが、療養客の為の社交用施設であろう、中にはカジノ、高級レストラン、コンサートホールがある。カジノはドイツで一番規模が大きく、中は宮殿のような作りである。建物も19世紀のものである。町には噴水や池も多く、この町が戦災を免れたのも、米軍がドイツ占領後バーデン・バーデンでの居住を望んだからである。

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ドイツでは林業に携わる人もメルセデス・ベンツで山に入ってくる。

この町にしばしば出張するのは何もカジノに遊ぶ為ではない。国際会議もよく開催されるし、外断熱の協会がこの町にあるからである。よくこの協会を訪問する。2006年に訪問した際に午後時間が余ってしまった。この町で、シュバルツヴァルトの森を散策し、森の保護をする団体があるという事を外断熱協会で知った。早速その仲間に入れていただき、シュバルツヴァルトの一角を散策した。多くは仕事をリタイアした初老の方々であったが、皆さん元気に歩き、害虫のついた木はないか、森林にゴミが捨てられていないかなどを観察して歩いた。

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バーデン・バーデンの森の散策


ドイツ語での木の名前も専門家から教わった。石の上に生えているような条件の悪い木もあった。4時間ほど森林を歩き、夕方バーデン・バーデンの町に戻り、皆さんとビールを飲んだが、適当な疲労の後のドイツビールの味は忘れられない。

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山歩きの後のビールは格別
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2007年02月26日

クヴェトリンブルグの町

文豪ゲーテがハルツ紀行を書きました。ブロッケン現象で有名なブロッケンの山もハルツにあります。この山には魔女が現れるという伝説もあり、魔女焼きという行事も行われます。このハルツの山並みの麓にクヴェトリンブルグという町があります。ここは旧東独で、偶然にも戦災を免れました。人口わずか2万5千人の小さな町ですが、13世紀以来の木造木組みの住宅が1200軒も並んでいます。日本の宿場町の規模とは全く異なり、中世の町に飛び込んでしまったような錯覚に陥ります。木の柱、梁にしっかり支えられこの住宅群は風雪に耐え現在はユネスコの世界遺産に指定されています。


クヴェトリンブルグの町並み

この町の歴史は古く、10世紀には神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世がここに居をかまえました。町の中心の丘の上に建つ聖セルバチウス聖堂は堅固なお城のような作りです。ロマネスク様式の聖堂で、ドイツ最古のものです。この町を訪ねるといつもこの聖堂の下にあるホテルに投宿し、自転車を借りて町を走ります。専門家がみると木組みの様子からその住宅が何世紀に建ったかわかるそうです。多くの住宅に文化財保護のマークが付いています。そして古建築の修復と保全の教育がそこでも行われています。町を飛び出しハルツの山の方向に自転車を向かわせると森が増えてきます。クヴェトリングブルグの住宅もこの森から切り出された材木を使用して造られたのでしょう。

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クヴェトリングブルグの町並み

ハルツの山の多くの部分は旧西独にあり、1972年ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所に留学時代当時の仲間と西側から遠くにこの町をみたことはありましたが、現在は直接この町を訪問でき宿泊もできるとは隔世の感がしました。当時一緒に西側のハルツの山を散策した仲間とは今も家族ぐるみの交際が続いています。
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