2010年8月に「建築家ブルーノ・タウト 人とその時代,建築,工芸のご紹介」を上梓しました。購入はこちらからお申込み下さい。 トップページには最新の記事が表示されます。最新5件の記事はメニューの一番上「最近の記事」に記載されています。それ以前の記事は「月ごとの記事」「カテゴリ」等でご覧下さい。

2010年08月25日

推薦 元建築学会会長 尾島俊雄先生

元建築学会会長 尾島俊雄先生より、「建築家ブルーノ・タウト」に対して 推薦の言葉をいただくことができました。

推薦
「建築家・ブルーノ・タウト」、貴兄の生真面目な性格がそのままブルーノ・タウトの生涯を正確に表現した名著となっています。感激しながら一息に読みました。見事です!

尾島俊雄先生
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2010年08月23日

推薦 早稲田大学名誉教授 木村建一先生

早稲田大学名誉教授、国際人間環境研究所代表の 木村建一先生より、「建築家ブルーノ・タウト」に対して 推薦の言葉をいただくことができました。


推薦

このたびは、貴著「建築家ブルーノ・タウト」をご恵贈いただき、まことに有難うご ざいました。
以前、「建築仕上技術」連載されていたものに、多くの新しい記述を付加されて、 大変立派な図書として上梓なさったことに、 敬意を表しますとともに、心からお祝いいたします。
日本の建築家の多くは、 日本建築を礼賛したタウトのことだけしか 知らないと思いますので、是非彼らに読んでもらって 認識を新たにしてもらいたいものです。
タウトは当時迫害を逃れてきたユダヤ人かな、 と思っていましたが、実はクリスチャンで、 ナチスの台頭に危惧を抱いたり、 日本の軍国主義に対する反戦思想の持ち主であ ったことを「タウトの言葉」の中から読み取りました。
著者の努力について感服するのは、執念深く、 タウトの家や作品を探して歩き、写真ばかりでなく、 図面や対話などを通して、人間タウトの全貌を集大成されたことです。
ドイツにもここまで調べあげた人はいないのではないでしょうか。

木村 建一
国際人間環境研究所代表
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2010年08月09日

建築家ブルーノ・タウト  人とその時代,建築,工芸 出版のお知らせ

ブルーノ・タウト 人とその時代,建築,工芸

田中辰明先生のライフワークが本になりました。
ご購入はこちらの申込用紙をダウンロードし、ご記入の上、 FAXでお申し込み下さい。

申込用紙(pdf:545kb)

ドイツに生まれ、一時期を日本で過ごし、 桂離宮の再発見などにより、 日本人に馴染みの深い建築家、工芸家、また文筆家でもあるブルーノ・タウト(1880-1938)。
副理事長の田中辰明先生(お茶の水女子大学名誉教授)は、 ドイツ留学時代(1970年代)から現在まで渡独の度に、 ブルーノ・タウト作品をこつこつと撮りためてきました。
このたび、これらの作品の紹介を中心とした書籍を上梓しました。
タウトに関する日本の多くの書籍は、氏の著書に関するものが多いですが、 この書籍では、特に1910〜30年代にタウトにより設計され その後に改修され現存しているドイツにおける作品を、調べ、 訪ね歩いたものを紹介しています。 建築家田中辰明先生の目から見た ブルーノ・タウト像が浮かび上がってきます。
タウトも建築も詳しくないという方でも、 お楽しみいただける書籍です。


建築家ブルーノ・タウト  人とその時代,建築,工芸


  • お茶の水女子大学 名誉教授・工学博士 田中 辰明
  • お茶の水女子大学 博士(生活科学) 柚本  玲
  • A5判/並製232頁/カラー口絵6頁
  • 定価2625円(本体2500円+税)
  • 株式会社オーム社


第1章 タウトの生涯とタウトを取り巻く人々
第2章 ユネスコ世界文化遺産と1924年までに設計されたジードルング群
第3章 1925年に設計されたジードルング群
第4章 1926年以降に設計されたジードルング群
第5章 ダーレビッツに残るブルーノ・タウトが設計した旧自邸
第6章 ブルーノ・タウトの多様な作品群
第7章 日本での活動−建築家の休日
第8章 タウトの言葉
文献一覧
タウト作品見学ガイド

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2010年02月01日

マクデブルク時代のブルーノ・タウト

マクデブルク時代のブルーノ・タウト
タウトが勤務していたマクデブルグ市の当時の市庁舎が残っています。この旧市庁舎は一旦戦争で破壊され復元されたものです。しかし地下は破壊されず、そこに食堂があり、タウトは昼食をそこで採っていたそうです。現在も地下室に食堂があります。筆者がテルトー(ベルリン郊外)の博物館で行われたブルーノ・タウト展を見学した際にはこの建物は派手に彩色されていました。しかし第二次世界大戦でこの建物は大きな損傷を受け、もとの形に復旧されたが、そのときに彩色はやめられました。タウトはマクデブルグで数々の建築を設計しますが、現存するものはオットー・リヒター通り(Otto・Richterstr.)の集合住宅です。町の中心から7kmほど離れた場所でかつ交通の便もよくなく、筆者らはタクシーを飛ばし、撮影を行い、再びそのタクシーで市内に戻りました。ベルリンのユネスコ世界文化遺産になった集合住宅は建築家ヴィンフリード・ブレンネ氏の手により、色彩の修復も行われました。当時のペンキの化学分析も行い忠実に元の色を再現したそうですが、オットー・リヒター通りの集合住宅はブレンエしには依頼が無く、当時の色彩の再現が行われ、どこまで忠実に再現されたか不明との事でした。ペンキは時と共に褪せることは確実で、丁度適当に褪せた時に周囲の雰囲気とマッチし、最高の調和がとれた状態にすれば良いとの考えもあります。筆者らが調査を行った時のオットー・リヒター通りの集合住宅は色褪せも始まらず、何と表現したらよいか分からない色彩でした。
ドイツの建築の色彩で派手なものを見るときに時々感じることがあります。「ドイツ人はこのような派手な建築色彩を許し、色彩音痴なのでないか」と。しかし我々が建築を見るのは多くの場合気候の良いときであって、実際は10月ともなると北ドイツでは重い黒い雲が垂れ込み、一体何時になったらこれが晴れるのかという天候が続きます。そして人々は建物内に篭もり、外部を出歩く事も少なくなります。そして降雪があります。このような重苦しい季節にこの派手な色彩が人々を冬の暗さから救ってくれるものなのです。


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タウトが勤務したマクデブルグ市旧市庁舎です。戦禍を受けましたが復興しています。


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タウトがマクデブルグに勤務中彩色した当時の市庁舎(テルト−のブルーノ・タウト展より)


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タウトが設計したオット−・リヒター通利の集合住宅です。


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ブルーノ・タウトが設計したオットー・リヒター通りの集合住宅です。


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オットー・リヒター通りの集合住宅


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オットー・リヒター通りの集合住宅


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オットー・リヒター通りの集合住宅玄関扉です。
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2010年01月18日

ウンターレキシンゲンの教会

タウトは1904-1906年Stuttgartのテオドール・フィッシャー建築事務所に勤務し、修行を行っている。この時に手がけた作品で現存するものがStuttgartの中心部から北東約40kmの郊外ウンターレキシンゲン(Unterrexiengen)に残っている。筆者らは平成21年10月にベルリンでタウト調査を行った後、ウンターレキシンゲンを訪問した。エコ建築家としてStuttgartの郊外エスリンゲン(Esslingen)で活躍している建築家ヴォルフガング・レーナート氏(Wolfgang Lehnert)に車で案内していただいた。この教会は村の教会(Dorfkirche)と呼ばれ決して規模は大きくない。村の教会は常時施錠されていて入れない場合も多い。しかも教会に連絡の取りようも無く、アポイント無しでの訪問である。最悪の場合は外部からの写真撮影だけでも仕方がないとして出かけた。



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タウトが1906年に改修を行ったウンターレキシンゲンの教会


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タウトが改修を行った祭壇



レーナート氏は訪問した日がたまたま土曜日であったことから、「日曜日の礼拝の為に教会関係者がその準備をしているはずでしょう」とたかをくくっていた。案の上、教会に着くと隣接する牧師館で「婦人会」というものが催されていて牧師の夫人に会うことが出来た。来意を告げると、「それははるばる・・・」と歓迎してくれ、自分は「婦人会で手が離せないが間もなくたまたま外出している牧師が帰ってくるはずだから、待っていてください。」とのことであった。秋のいつ降り、いつ止むとも分からない細雨が降り続いていた。少々寒く感じながらも水溜りを避けて教会の外部写真を撮っていると、トックリ首のラクダ色のセーターを着た元気そうな男性が走ってきた。牧師とは黒いガウンを纏った威厳のありそうな人と固定概念を持っていただけに以外であったが、この人がこの教会の牧師でヨッヘン・ヘーゲレ師(Pharrer Jochen Hägele)であった。再度来意を告げると、喜んで教会の鍵を開けて内部を丁寧に案内してくださった。



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祭壇の裏にあるタウトの彫り


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タウトにより改修された信者席


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1695年からある伯爵席の紋章



ヘーゲレ牧師によるとこの教会は歴史のある教会で、歴代の牧師が教会に記録を残しているそうである。それによると教会の母体が出来たのは1441年になるそうであるが、当時の姿がどのようなものであったかは不明である。1627年に大風により鐘が壊れ、これを契機に教会を再建したそうである。後期ルネッサンスの形式で、その後も修理が行われ、1906年の改修がブルーノ・タウトによって行われ、祭壇の裏に、「B.T. 1906」という彫りがあることから、祭壇もタウトにより設計されたと考えられるそうである。牧師は我々に当時の牧師がタウトにこの改修工事に関して送った手紙のコピーを下さった。実に100ページを超えるもので、やはり教会の上部団体から取れる予算がタウトの設計の範囲に入るか、信者席の数、暖房の位置が良いか、パイプオルガンの設置等等に関するものである。タウトは牧師に彩色したスケッチを付けた手紙を送ったようで、牧師はこれに感激し、返書の中で謝辞を述べている。



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タウトが改修を行った際に設置されたパイプオルガン
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2010年01月11日

ベルリン市ブリッツにあるブルーノ・タウト小学校

タウトが多くの集合住宅はブリッツ等、労働者の居住区に多い。タウトと共に来日し、タウトの活動を支えた伴侶エリカの墓もブリッツにある。そして現在ブリッツには設計にタウトが関わっているわけではないが、ブルーノ・タウトの名を冠した「ブルーノ・タウト小学校」がある。筆者はこの学校を訪問し、校長と話をしたことがある。タウトの教育思想を取り入れ、教育をいっているとのことであったが、なにしろ、公立学校である。校舎もできるだけ「タウトの思想を取り入れて設計したが、思うようには行かない・・・・」と校長は理想と現実の乖離を嘆いておられた。


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ブルーノ・タウト小学校外観


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ブルーノ・タウト小学校外観


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ブルーノ・タウト小学校アトリウム(低学年児童の父親が迎えに来ていた)


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ブルーノ・タウト小学校外観


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ブルーノ・タウト小学校・給食の時間


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ブルーノ・タウト小学校低学年遊戯室
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2009年12月28日

イデアールジードルング“Siedlung Ideal”

イデアールジードルング“Siedlung Ideal”

ベルリン市の馬蹄形住宅があるブリッツ地区にこのジードルングもあります。ブッシュローゼンプラッツ(Buschrosenplatz)、フランツ・ケルナー通り(Franz-Kornerstr.)、ルンギウス通り(Rungiusstrase)に囲まれた場所にこのジードルングは位置します。造園建築家レバーレヒト・ミッゲ(Leberrecht Migge)が協力をしています。発注者、所有者共にイデアール(Ideal)という建築共同組合です。

GAHAGの主任技師としてブルーノ・タウトは建築協同組合ブリッツ(Britz)のイデアール(IDEAL)の建築計画に長年従事していました。タウトは建築協同組合との緊密な共同作業により“新しいベルリンの建築として最も近代的で、最も愛すべき作品となった”と述べています。1929年から1930年にわたり、3期に分けて350戸の集合住宅と10戸の独立住宅が建設されました。集合住宅は南北軸に計画されました。タウトが従来設計してきた集合住宅は、近代的ではあるが、実質的で、飾り気の無いものが多かったのです。このイデアールでは古風で、南ドイツ風の雰囲気を醸し出すものでありました。外壁は吹きつけ仕上げを施し、屋根は当時としては珍しく、陸屋根です。また当時としては窓面積も大きく取られています。厨房器具は当時既にシュッテ・リホツキー(Schutte Lihotzky)社により開発されたシステムキッチンが使用されていました。

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Baugenossenshaft ・IDEAL(建築協同組合イデアール)との文字がある外壁の集合住宅です。

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住宅住棟間の通路と両側に庭です。各戸の庭は低い仕切りで仕切られています。この方法はオンケルトムズヒュッテ等と同じです。

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いかにも明るい感じのバルコニー、各住戸の庭、そしてタウトが大切にした緑です。

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住戸の庭です。各住人がいかにも生活を楽しんでいる雰囲気があります。
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2009年12月21日

アッチラヘーエ集合住宅(Wohnanlage Attilahohe)

ベルリン市テンペルホーフ地区にある集合住宅群です。これはブルーノ・タウトの「ベルリン貯蓄・建築協会」との最後の共同プロジェクトとなりました。アッチラとはフン族の王の名前で、たまたまこの住宅団地がアッチラ通り(Attilastr.)にあることからこの名前が付けられました。ヘーエ(Hohe)とは高台の意味を持ちます。この計画にはタウトと共に設計事務所を経営していたフランツ・ホフマン(Franz Hoffmann)がこの設計に協力しています。発注者はベルリン貯蓄建築協会(berliner Spar-und Bauverein e GmbH)で所有者は1892年のベルリン建築住宅協同組合(Berliner Bau-und Wohnungsgenossenschaft von 1892 e.G.)です。118戸の集合住宅よりなります。1928年に計画が始まりました。

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タンクレド通り(Tankredstr.)の集合住宅です。住棟に5本の煙突を兼ねた柱が外部についています。

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写-1と同じ建物を裏側から見たものです。タウトの作品に良く見られるような何の飾りもない、単調な仕上げとなっています。

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ジードルング内部の庭です。住宅を高層化する代わりに広い内部の庭を設け、住人の憩いの場所としました。従来ベルリンにあった集合住宅にはこのような配慮が無く、タウトの住まい手の立場に立って設計をするという思いやりが込められています。

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住棟を通る自動車道です。自ら自動車を運転したタウトは1920年代に既に自動車の普及を見越し、自動車がジードルング内に入ることを予測し、このような道を設けています。

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住棟の赤い塗装の扉です。腰壁にはレンガを積み、ここにアクセントを与えました。ここ錠前は後に交換されたもので、タウトの時代のものではありません。
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2009年12月14日

ブルーノ・タウトが設計したベルリン市の“フライエ・ショレ“ジードルング”

このジードルングはベルリン市テーゲル地区のヴァイデマンスルスターダム(Waidmannsluster Damm)を中心に拡がっています。発注者はフライエ・ショレ・テーゲル(Freie Scholle,Tegel)で、1924年に計画が始まり、ブルーノ・タウトが担当しました。541の住戸があり、45%にあたる242住戸は集合住宅、55%にあたる229戸は独立住宅です。この地区は旧西ベルリンであったこともあり、明るい感じがします。修復や補修の工事も行き届いているように見えました。


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集合住宅の一部に肉屋とソーセージ屋を取り込んでいます。店の外には椅子も並び、焼いたソーセージを肴にビールを飲みつつジードルングの住民たちが談笑を行うのでしょう。訪問したのは10月の半ばでした。ベルリンの10月というとそろそろ寒気を伴った北風が吹き出します。店の前にはテーブルと椅子が並べられてはいましたが、流石にそこでビールジョッキーを傾ける人はいませんでした。

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樹木を多く配置した集合住宅です。縦方向にレンガを模擬したタイルで線を入れ、アクセントとしています。外壁の塗装は明るい黄色です。玄関には赤など目立つ色を用いて、集合住宅から来る単調さを打ち消していました。

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4世帯住宅です。この左に”ショレの小店舗“と書いた食料と雑貨を扱う店があり、配達も行うと書いてありました。ドイツで食料品などの配達を行う店は稀で、このような店舗をジードルングの中に置くことで、ジードルングでの生活に利便性を与えたのでしょう。

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赤と黒で塗装をしたこのジードルングの住宅の玄関です。この玄関が並ぶにはテーゲルノ“フライエ・ショレ”のうち、休養通り(Erholungsweg)にあります。隣家との仕切りのレンガ壁に「歴史的記念建築物保存」のシールが見られました。

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海老茶色に塗装された集合住宅です。玄関には冬の風除け用にかつ、暗くはならないようにと、ガラスの仕切りを設けています。隣家との仕切りにはレンガ壁を設けています。
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2009年12月07日

ブルーノ・タウトが設計した労働者建築共同組合“パラダイス”のジードルング

ベルリン市ボーンスドルフ(Bohnsdorf)地区に労働者建築協同組合”パラダイス“が建設したもので、所有者も労働者建築協同組合”パラダイス“です。約280戸の住宅が建ち、2家族住宅と集合住宅が混在しています。1期工事は1925〜1926年に行なわれ、二期工事は1929年から1930年の間に行なわれました。1995年から1996年にかけて修復工事が行なわれました。

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ピチェナー通り(Pitschenerstr.)とレシュニッアー通り(Leschnizerstr.)の交差する地点に建つ4家族住宅です。切り妻屋根でレンガのように見えるタイルで横に帯を作り、アクセントとしています。昔は暖房にカッヘルオーフェンが使用されていたのでしょう、煙突が4本残っていました。

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レシュニッアー通り(Leschnizerstr.)の4家族住宅です。10月の半ばで外壁の蔦が見事に紅葉していました。切妻屋根に採光用の天窓が設けられています。

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2家族住宅です。切り妻屋根で、やはりカッヘルオーフェンで当初は暖房をしていたのでしょう、煙突が残っていました。またレンガのように見えるタイルで横の帯を作り、住宅にアクセントを与えています。小さめな住宅でありながら住宅玄関へのアプローチは工夫がなされています。

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海老茶色に彩色された集合住宅がありました。屋根はほぼ陸屋根に近い状態です。玄関の扉を見ればこれはブルーノ・タウトの設計であるとわかります。他にあるタウトの作品と同じ特別な色彩が施されていました。
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直交する集合住宅です。この直交部分にバルコニーが設けられています。直交する住宅は一方は黄色に、一方は海老茶色に彩色されていました。


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2009年11月30日

ブルーノ・タウトが1924年に設計したマールスドルフの住宅団地

発注者はリヒテンベルグのガルテンハイム共同住宅組合(Gmeinnutzige Siedlungsgenossenshaft Lichtenberger Gartenheim eGmbH: LIGA)」でベルリン市マールスドルフ(Mahlsdorf)地区に田園都市調の約250戸の規格化された独立住宅です、2家族住宅が点在して建設されています。1924年から1931年にかけて建設されました。設協同組合DEWOGの役員をマルチン・ヴァーグナー(Martin Wagner)が務めており、GEHAGとの共同で建設が行われ、ブルーノ・タウトがGEHAGの主任建築家として設計に当たりました。1924年に建設が始められたものですが、タウトはここでも将来の自動車の普及を予測していた。団地内を自動車が高速で走り抜けないように敷地内道路を故意に曲げて配置し、かつ、石畳の道路としています。当時既に団地内においてすら車道と歩道との分離を行っています。

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団地内を自動車が高速で走り抜けないように敷地内道路を故意に曲げて配置し、かつ、石畳の道路としています。当時既に団地内においてすら車道と歩道との分離を行っています。

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団地内の2家族住宅です。切り妻屋根ですが、瓦は最近交換されたものでしょう。住宅の背後には広い庭があり、田園生活を楽しめるようにしてあります。事実果実のなる樹木が植えられていました。道路側に狭い敷地であるにも拘わらずりんごの木が植えられ、丁度たわわになっている状態でした。かなり熟していたが、これをもぎ取り持って行く人もいないという都市の生活は羨ましく思いました。

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これも2家族住宅です。右側の住宅は損傷がやや激しくなっています。ここは旧東ベルリンであるので、ベルリンの壁崩壊から20年経過しても経済状態が厳しい家庭もあるのでしょう。それに対し、左の住宅ではガラス窓も入れ替え、最近の断熱気密カラスが挿入されていました。

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住宅の玄関を示します。ここでも深い降雪を予想して段を上って室内に入るようになっています。住宅の隅角部にレンガを配置してアクセントとしている。黄色と濃い海老茶の扉を設けてややもすると単調になる集合住宅に彩を添えています。各戸に微妙な色彩の差を設けて住宅が単調にならないように配慮しています。この住宅には「記念建築物保護」のマークが付けられていました。
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2009年11月23日

ブルーノ・タウトが1924年に設計したトレッビン(Trebbin)の住宅団地

ベルリン郊外のテルトー・フレミング(Teltow Flämming)地区のトレッビン(Trebbin)にこの住宅団地はあります。ある。建築協同組合“トレッビン”が計画したものでトレッビンは発注者であり、所有者でもあります。郊外の広々とした敷地に16棟の住宅が建っています。その内4住宅は2家族住宅です。これはGEHAGの主任技師としてブルーノ・タウトが初めて行なった物件であります。建築協同組合“トレッビン”とGEHAGの共同の仕事とも言え、1924年に建設が開始され1926年に終了しています。これはタウトが主張していた田園で労働と生活を共同で行なうという理想郷を作ろうとしたものでありました。各戸に畜舎と菜園となる庭園を設け自給自足が可能になるように考えられました。皆切妻屋根でまずヘップナー通り(Höpfnerstraße)に添って入り口の4棟が建設されました。それ以外の4棟はタウトと異なる設計者が設計していますが、この設計はタウトの思想に添って行なわれました。ベルリンの中央からは距離はあるものの、車を使用すれば比較的楽に通勤もできるものであります。

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ジードルングの一番右の2家族住宅です。ヘップナー通り(Hopfnerstrase)1番地の番号がついている、半地下室を持つ地上2階建てで、1階へは段を上って入るようになっています。ベルリンの郊外で、恐らく降雪が深い場合には住宅に入るのにこの程度の段が必要であったのでしょう。


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えんじ色に着色された2家族住宅です。やはり深い降雪に対する対策がなされています。

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団地の拡がりと背後の森林を示しています。タウトはこのような環境で居住者の共同生活を実現させようと考えたようです。

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敷地内にあった看板で、この“フライエショレ”協同組合団地が1990年に75周年を迎えた事を記念するものです。現在の住人もタウトの思想を尊重し、このような看板を設置したものと考えられます。
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2009年11月16日

ブルーノ・タウトの設計したコトブサーダムの商業建築

ブルーノ・タウトは1920年代に多くの勤労者向け集合住宅を設計した建築家として紹介を行ってきた。しかし数は多くないものの商業建築も設計している。ここに2つの商業建築を紹介する。
コトブサーダム2- 3番地(Kottbusser Damm)の賃貸・商業建築はベルリン市ノイケルン(Neukölln)地区コトブサーダム2〜3番地にある。1910年から1911年にかけて建設された。地下鉄(U-Bahn)のシェーンライン通り駅(Schönleinstr.)の直前にある。主に平面計画は建築家アルトゥール・フォクト(Arthur Vogdt)により実施され、ブルーノ・タウトはファッサードの設計を行っている。所有者はアルトゥール・フォクトであった。この建物の中に映画館があり、この内装はタウトが行なった。しかし戦災後この映画館は無くなっている。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けたが1977年から1978年にかけてファッサードは以前と同じ状態に復興された。タウトは同じ時期に同じコトブサーダム90番地にもやはりアルトゥール・フォクトの依頼により賃貸商業建築を設計している。

コトブサーダム90番地の(Kottbusser Damm)の賃貸・商業建築商業建築はベルリン市ノイケルン(Neukölln)地区コトブサーダム90番地にある。1909年から1910年にかけて建設された。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けたが1980年にファッサードは以前と同じ状態に歴史的建築物修復法により復興された。

タウトは賃貸建築の価値を上げることに腐心した。古い建築法規に拘束される事を嫌い、張り出し窓、外に出ない屋根付バルコニー、一般バルコニーを設け、ファッサードに工夫を凝らした。さらに彩色により、特徴を持たせ、建物に投機の価値を持たせた。19世紀の伝統的なファッサードとは異なり、ダイナミックなファッサードを実現した。


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コトブサーダム2- 3番地の商業建築

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コトブサーダム90番地の商業建築
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2009年11月09日

ダーレビッツに残るブルーノ・タウト設計の旧自邸(3)

ベルリンの南50 kmほどの所にダ−レビッツ(Dahlewitz)と言う村があります。ここにブルーノ・タウトが自ら設計し、台頭してきたナチス政権を逃れて来日するまで住んでいた旧宅があります。現在の所有者である画家の婦人は音楽の才能にも優れ、旧宅保存資金確保のためにタウト命日の12月24日にチャリティーのコンサートを開いたり、積極的に活動をしてきました。このチャリティ−コンサートでは自らチェロを演奏し、楽団員は殆どが婦人のご家族でした。婦人は旧東独の年金生活者で「ついに保全の資金も尽きた」として日本に援助を依頼してきた次第です。しかし婦人の必死の努力(タウトの功績を公開する展示会の開催等)で修復のための公的資金を得られるようになった事は、わが国に取っても喜ばしいことと考えます。


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現在の所有者である画家の夫人から見せていただいた写真です。タウトの相続人でタウト子息のハインリッヒ(後フンボルト大学教授)と旧宅の売買交渉をする婦人が写っています。偶然日本婦人も写っていますが、どなたか、なぜ此処に写っているかは分からないそうです。現在の所有者もどなたか知りたがっておられます。

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旧宅の残るダーレビッツのドイツ鉄道(Bundesbahn)の駅です。ガラスは今でも割れたままでベニヤ板で補修されています。公共鉄道の駅舎でもこのような状態ですから、いくらタウトの作品でも公的資金が保全のために注がれるのは無理だといわれていました。しかし努力の結果公的資金が修復に向けられたのです。

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外壁の窓ですが、このように塗装も剥げています。

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2階のバルコニ-部分の損傷です。冬季には気温が非常に下がる土地ですので、ひび割れに水が入り凍結するとコンクリートは剥落の危険性があります。

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タウトは桂離宮の襖の取っ手をほめていますが、タウト設計の自邸の扉取っ手も非常に凝っています。

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2009年11月02日

ダーレビッツに残るブルーノ・タウト設計の旧自邸(2)

ベルリンの南50 kmほどの所にダ−レビッツ(Dahlewitz)と言う村があります。ここにブルーノ・タウトが自ら設計し、台頭してきたナチス政権を逃れて来日するまで住んでいた旧宅があります。先週この住宅の保存について、「古いものを大切にするということで、ドイツ人の考え方に感服した次第です。」と書きました。

早速古い友人から電話があり、「君も古いものが好きなようだな、自分のうちの祖母さんの面倒を見てくれないか?」との要請でした。もちろん冗談でしょうが。ご本人長く勤めた会社を定年になり、これから第二の人生を楽しもうとしていた矢先老母に倒れられてしまったそうです。高齢化社会に入りこのような問題は増えるでしょう。さてダーレビッツのタウト旧宅修復工事にドイツ側が予算をつけてくれました。この10月にベルリンで様子を見て来ましたので、またこのブログでご紹介したいと思います。


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旧宅の窓枠も彩色されています。

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旧宅の外壁ガラスブロックはタウト初期の作品「ガラスの家」を髣髴させます。

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旧宅の2階居室です。現在の所有者はここをアトリエとしています。

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旧宅の階段です。タウト設計の階段はいつも特徴があります。旧日向別邸(熱海市)の階段も直階段でなく、最後のところで曲がりを設けています。

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旧宅1階居間の収納棚もタウトの設計です。引き出しに彩色されています。

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2009年10月26日

ダーレビッツに残るブルーノ・タウト設計の旧自邸(1)

ベルリンの南50kmほどの所にダ−レビッツ(Dahlewitz)と言う村があります。ここにブルーノ・タウトが自ら設計し、台頭してきたナチス政権を逃れて来日するまで住んでいた旧宅があります。来日して書いた「日本・タウトの日記」にも良く出てくる旧宅で、タウトが思いを馳せていた事を思わせます。かってこの住宅を訪問した際に現在の所有者である女流画家から「旧宅の損傷が激しくなっているのでタウトファンの多い日本からも修復の援助をしてもらえないか」と打診を受けたことがありました。日本経済新聞の文化欄、その他を通じて寄付を呼びかけましたが、日本の経済状態は悪化の一途をたどりとても寄付を仰ぐ状況ではなくなりました。その間にタウト設計のベルリンの集合住宅4件が2008年7月にユネスコの世界文化遺産に指定されるようになりました。そしてドイツでもタウトの名が有名になりました。その結果旧宅の建つブランデンブルグ州と重要建築物保存協会が修復の予算をつけてくれることになりました。この住宅は現在個人も所有であります。日本で寄付集めを始めようとしたときにも「個人の所有」ということが問題になりました。外国にある個人財産の価値を寄付金で修復し高めるという事は憲法違反であるという事まで言う人も現れました。ドイツでは「老婦人が旧東独の乏しい年金で有名建築を維持管理してきたことだけでも素晴らしいことであり、ここに公的資金を導入することは問題が無い」との事でした。古いものを大切にするということで、ドイツ人の考え方に感服した次第です。

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旧宅庭側、白い外壁

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旧宅道路側のチャコールグレーの外壁

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旧宅の外壁には「記念建築物」のプレートが貼られている。

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旧宅の居間。タウトが日本で唯一残した作品旧日向別邸(熱海市)の居間と雰囲気が似る。旧宅ではこの段に腰掛けてダーレビッツの森を見た。

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旧宅の居間から見た隣接するダーレビッツの森と自宅の庭。ここに見るようにタウトは放熱器にも着色した。ポンプを使用しない重力式温水暖房のため放熱器は大きい。

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2009年09月21日

ベルリン市ミッテ地区に建つ旧労働組合連合会の建物

ブルーノ・タウトはベルリン市ミッテ地区(Mitte)にも商業建築を残している。
当初の設計はブルーノ・タウトとフランズ・ホッフマンであり、1927年から1930年の間に設計された。発注者がドイツ交通連盟であった。1930年から労働者連合会に代わった。平面的にはほぼ四角形で中庭がある。5階建てで各階にリザリト(建物前面の突出部)がある。ブルーノ・タウトは台頭してきたナチス政権から社会主義建築家として睨まれるようになり、日本への脱出を図る。そのことにより、途中から実弟のマックス。タウトが設計を担当して仕上ている。当初直角であった隅角部にマックス・タウトは丸みをつけている。マックスはスパンを経済的に計算し、現在の物に変更している。このビルはミカエル教会広場(Michaelkirchplatz)とエンゲルダム通り(Engeldamm)の交点に建っている。この建物に隣接するミカエル教会は都心にある。ミッテ地区は旧東ベルリンにあったため、当時の教会運営は非常に大変であった。統一後は都心にある教会として多くの礼拝者を集めている。



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ベルリン市ミッテ地区に残るブルーノ・タウトが手がけた商業建築


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タウト設計の商業建築に隣接して建つミカエル教会
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2009年09月14日

ブルーノ・タウトの設計した商業建築

ブルーノ・タウトは1920年代に多くの勤労者向け集合住宅を設計した建築家として紹介を行ってきた。しかし数は多くないものの商業建築も設計している。ここに2つの商業建築を紹介する。
1. コトブサーダム2〜3番地(Kottbusser Damm)の賃貸・商業建築
この商業建築はベルリン市ノイケルン(Neukölln)地区コトブサーダム2〜3番地にある。1910年から1911年にかけて建設された。地下鉄(U-Bahn)のシェーンライン通り駅(Schönleinstr.)の直前にある。主に平面計画は建築家アルテウ―ル・フォクト(Arthur Vogdt)により実施され、ブルーノ・タウトはファッサードの設計を行っている。建物は個人の所有で1909年から1910年の間に建設された。所有者はアルテウール・フォクトであった。この建物の中に映画館があり、この内装はタウトが行なった。しかし戦災後この映画館は無くなっている。タウトは賃貸建築の価値を上げることに腐心した。古い建築法規に拘束される事を嫌い、張り出し窓、外に出ない屋根付バルコニー、一般バルコニーを設け、ファッサードに工夫を凝らした。さらに彩色により、特徴を持たせ、建物に投機の価値を持たせた。19世紀の伝統的なファッサードとは異なり、ダイナミックなファッサードを実現した。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けたが1977年から1978年にかけてファッサードは以前と同じ状態に復興された。タウトは同じ時期に同じコトブサーダム90番地にもやはりアルテウール・フォクトの依頼により賃貸商業建築を設計している。

2. コトブサーダム90番地のの賃貸・商業建築
この商業建築はベルリン市ノイケルン(Neukölln)地区コトブサーダム90番地にある。1909年から1910年にかけて建設された。やはり張り出し窓、外に出ない屋根付バルコニー、一般バルコニーを設け、ファッサードに工夫を凝らした。さらに彩色により、特徴を持たせ、建物に投機の価値を持たせた。19世紀の伝統的なファッサードとは異なり、ダイナミックなファッサードを実現した。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けたが1980年にファッサードは以前と同じ状態に歴史的建築物修復法により復興された。



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コトブサーダム2〜3番地の商業建築



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コトブッサーダム90番地の商業建築です
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2009年09月07日

ベルリン・リヒターフェルデ(Lichterfelde)にタウトが設計したライベダンツ(Reibedanz)大邸宅

この住宅は旧西ベルリンリヒターフェルデ(Lichterfelde)地区アドルフ・マルテンス通り(Adolf Martensstr.)14番地に建っています。この大邸宅はベルリンの高架鉄道(S-Bahn)リヒターフェルデ西駅(Lichterfelde-West)の直前に建ち極めて交通の便も良いところにあります。共同設計者はブルーノ・タウトが共同で建築設計事務所を主宰していたフランツ・ホフマン(Franz Hoffmann)です。建築物の彫刻家としてヴィルヘルム・レプゾルド(Wilhelm Repsold)も参加しています。タウトはベルリン郊外で高級住宅が建ち並ぶニコラスゼー(Nikolassee)に1908年から1909年にかけてフラム氏(Flamm)の大邸宅を設計しています。この邸宅は戦災も免れ、残っていましたが1970年に改造され、原型をとどめないようになりました。この大邸宅が話題を呼び、1910年にランベダンツ(Reibedanz)氏から賃貸の大邸宅の設計依頼を受けました。ライベダンツ氏は洗濯業を営み蓄財した人物でした。この大邸宅建設と同じ時期にベルリン市テンペルホーフ(Tempelhof)地区にやはりブルーノ・タウトの設計により水蒸気の洗濯工場を建設しています。フラム大邸宅をモデルにタウトはこの住宅もほぼ立方体で纏めている。かつそこに建築彫刻家を用いて湾曲した建築のモチーフを入れています。これは賃貸の大邸宅として設計され、シンケルの名を冠した建築学校がベルリン西郊に多くの高級住宅を建設しましたが、その方法に倣っています。ベルリンの町を形造った大建築家カ−ル・フリードリッヒ・フォン・シンケル(Karl Friedrich von Schinkel、1781〜1841)をブルーノ・タウトは尊敬していました。内部には多くの賃貸住宅を設け、外部は旧来のベルリン西郊の高級住宅に倣いました。各階床面積は250m2で6室よりなっています。


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この邸宅のアドルフ・マルテンス道り(Adolf Martensstr.)側の外壁です。北側の外壁になります。邸宅の前にはドイツ人が忠実な木として好むもみの木が植えられています。


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庭側、南側の外壁です。ここでは湾曲した外壁の様子が分かります。地上4階建てそして屋根裏部屋があることが分かります。3階の中央にはバルコニーが設けられています。


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東側の外壁です。東側にこの邸宅の入り口玄関があります。


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東側外壁の玄関扉です。鉄製で樹木をモチーフにしたのか、白い飾りが付いています。左に複数の呼び鈴が付いています。この事からこの邸宅には多数の家族が住んでいることが分かります。玄関の上には雨よけの庇がついていますが、かなり凝った模様も施されています。庇の内側は銅板です。
ブルーノ・タウトは沢山の集合住宅を建設し、住宅に困窮したベルリンの労働者の生活と健康に配慮した“社会主義建築家”として知られています。しかし一方で富裕階層からの依頼も拒むことなく大邸宅の設計も行ったのです。
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2009年08月31日

ブルーノ・タウト設計のヨハネスタールの低層住宅群

ヨハネスタール(Johannesthal)地区の西通り(Weststr.)に沿って建つ2階建ての低層住宅群です。ヨハネスタールは旧東ベルリンで、東ベルリンの西側に位置します。。かってベルリンの壁が存在したときには壁の反対側が西ベルリンのノイケルン地区でした。最寄の駅は高架鉄道(S-Bahn)のシェーネヴァイデ(Schoneweide)駅です。しかし、この駅から現地に徒歩で行くには相当の時間がかかります。このような土地に住宅を建設したのも田園都市構想に基づくものであったのでしょう。公共交通機関で現地を訪問するにはベルリン市営バスで行くのが良いと思います。GEHAGが1925年から27年にかけて建設し、個人の所有になっています。ブルーノ・タウトの作品は44世帯あり、2世帯住宅、連続住宅からなっています。第二次世界大戦でいくつかの住宅が破壊されました。1995年に記念建築物保護法に基づく改修が行われました。この住宅群はブルーノ・タウトが1919年から始めていた小規模住宅群の最後の作品とも言われています。ブルーノ・タウトはGEHAGの技師としてヨハネスタールの仕事を行い、1925年〜1927年に工事が行われました。後世これはタウトの建築家としての前半期最後の作品とも言われるようになりました。


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西通り(Weststr.)11番、12番の住宅を示します。調査を行ったのが2009年のイースターの祭りの最中でどの住宅にも卵がつるされ、キリストの復活を祝っていました。


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西通り(Weststr.)1番の住宅です。建物にクリンカータイルで帯をつけ、集合住宅という大量生産により安価に建設をしたのですが、住宅ごとに個性を出すことにタウトは配慮しました。


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西通り(Weststr.)の連続住宅です。決して高層住宅ではなく2階建てであります。


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西通り(Weststr.)の連続住宅の裏の庭です。住宅は南を向いていますが、後になって付設の温室が設けられた様子がわかります。付設の温室はパッシブの太陽熱利用で重要な手法ですが、ドイツではこれを冬の庭(Wintergarten)と呼んでいます。
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2009年08月24日

ブルーノ・タウトがベルリンのホーエンシェーンハウゼン(Hoenschönhausen)に設計した住宅群

この住宅群は旧東ベルリンのホーエンシェーンハウゼン地区にある。高架鉄道(S-Bahn)のゲーレンゼン通り駅(Gehrenseestr.)の西約1.5 kmにあります。パウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)を挟んで、北側と南側に住宅は並んでいます。個人の所有で、ブルーノ・タウト設計分としては43世帯分の住宅が建っています。2世帯住宅、独立住宅、そして1棟ではありますが連続住宅もあります。建築主はベルリン市でした。パウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)に広場を設け、住民の交流の場としての利用、お祭りを催すことも可能な広場を設けました。この地区は田園地帯です。住宅と田園の合体、都市にありながら故郷の感覚を住民が享受できるように配慮されました。1926年から1927年にかけて建設が行われました。
これは家畜小屋であった。当時は馬が飼育されていたか、ヤギなどの小動物が飼育されていた。まさにベルリンという都会にあって田園都市の生活を享受するというブルーノ・タウトの理想が表れている。1936年にファッサードの変更が行われた。第二次大戦で7戸の住宅が破壊されたが、1981年に再建され、再度1990年代にリフォームも行われた。


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パウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)の住宅です。外壁は明るい黄土色に塗装されています。まさにベルリンという都会にあって田園都市の生活を享受するというブルーノ・タウトの理想が表れています。


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同じくパウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)の二つの住宅の接合部を示します。この接合部が家畜小屋でした。当時は馬が飼育されていたか、ヤギなどの小動物が飼育されていました。


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同じくパウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)の二つの住宅を示します。ここでは屋根にトップライトが設けられていることが分かります。当時から昼光の有効利用が考えられていました。しかしトップライトは建設工事を失敗すると雨漏りの原因ともなります。


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パウル・ケーニッヒ通り(Paul Königstr.)がロータリーになっています。そこで、住民の話し合いや野外パーティーや祭りが行われたそうですが、その部分です。写真で芝生の部分が住民交流の場であったのです。敷地の有効利用だけを考慮すればこのような広場は省略されそうですが、タウトは単に住宅を設計するだけではなく、このような住宅団地においても住民の生活はどうあるべきかを考えた人でした。
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2009年08月17日

ブルーノ・タウト設計のフリードリッヒ・エバートの住宅

鹿山国民公園(Volkspark Rehberge)と呼ぶ広い公園に接してフリードリッヒ・エバート(Friedrich Ebert-Siedlung)集合住宅があります。この住宅団地の一方の道は、東郷通り(Togostrase)と呼ばれています。東郷元帥は日露戦争の日本海海戦において、当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を、連合艦隊を率いて一方的に破って世界の注目を集めました。アドミラル・トーゴー(Admiral Togo, 東郷提督)としてその名を広く知られることとなった元帥を記念した通りです。この住宅団地はメベス(Mebes)とエンマリッヒ(Emmerich)の計画で進められていたところにブルーノ・タウトが加わりました。それほど広くない敷地にコンパクトに住棟を納めました。タウトの作品としては珍しく、あたかも日本の住宅団地のように長方形の住棟を平行に配置しています。


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フリードリッヒ・エバート通りの住棟


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東郷元帥を記念した東郷通りの住居番号があるタウト設計の集合住宅


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タウト設計の集合住宅
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2009年08月10日

ブルーノ・タウト設計のノンネンダム通りの住宅

ノンネンダム通りの住宅はブルーノ・タウトとパートナーであったフランツ・ホッフマンとの共同設計です。1911年に建設された比較的古い集合住宅で、現在は個人の所有になっています。典型的な都市型住居で、与えられた敷地に賃貸集合住宅をうまく納めた例と言えます。

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ノンネンダム通りの住宅


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西側の外壁です。


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東側の外壁です。


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内部の階段です。


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外壁の扉を室内側から写しました。
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2009年08月03日

ブルーノ・タウト設計のアイッヒカンプの住宅団地

ベルリンのS-Bahn(郊外電車)グリーネヴァルト駅の北約1 kmの所にアイッヒカンプ住宅地(Siedlung Eichkanp)という集合住宅団地がある。この住宅団地の西は緑の森(Gruenewald)に隣接している。ここではブルーノ・タウトの実弟マックス・タウト(Max Taut)が兄ブルーノ・タウト並びにフランツ・ホッフマン(Franz Hoffmann)と共同設計事務所を設立し、1919年にこの地に人口10000人、1,700戸の住宅団地造成が計画された。しかし第一次世界大戦の影響で、全ては実現しなかった。ここに1925年から1927年にかけて建設が行なわれ、全て個人所有の住宅である。この内ブルーノ・タウトの作品は42住戸あり、独立住宅、もしくは二家族住宅である。1970年代からリフォームが行なわれている。小住宅群の住宅団地で、タウトの作品としては他に例が無く、貴重な作品である。

マックスタウトはZikadenweg55番地に住宅を建て居住したが、1951年に同じ団地内のLarchenwegに新築し、そちらへ転居した。Zikadenweg55番地の住宅はその後マックス・タウトのアトリエとして使用されていた。ブルーノ・タウトと共同で設計事務所を経営したフランツ・ホッフマンもこの住宅団地のZikadenweg70番地に居を構えるなど、アイッヒカンプの住宅団地はタウト兄弟に特別な意味を持っている。


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アイッヒカンプの集合住宅

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マックス・タウトが当初住居とし、その後アトリエとして使用した住居(Zikadenweg55番地)



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外壁の窓にアクセントと配置に考慮を払ったアイッヒカンプの集合住宅です。



ブルーノ・タウトは青春時代をベルリンの郊外、北へ40 kmの地点にある小村コーリン(Chorin)で過ごしている。ブルーノ・タウトは1934年8月27日の日記に次のように記している。「快晴。敏子さんが達磨寺の近辺を案内してくれた。四囲の山々はこれまで見たこともないほどはっきり輪郭を示している、もっと遠方にはこれも山頂まで惜しみなく露わした浅間山の偉容。敏子さんは、浅間山は私の父、榛名山は私の母だという。田舎ばかりで育ったというのに利発な娘さんだ。コリーンの娘達を思い出した。寺の近くには敏子さんだけが心得ているさまざまな小径がある。」(日本・タウトの日記、篠田英雄訳)この敏子さんは当時の少林寺達磨寺の住職廣瀬大蟲住職の長女であり、現在の廣瀬正史住職の伯母にあたる方である。。タウトは1903年から翌年にかけての冬、ここに数週間滞在したことがある。(タウトの日記、篠田英雄註)ここでヴォルガスト(Wollgast)家が営む鍛冶屋があり、かつクロスターシェンケ(Kloster Schanke)と呼ぶ大きな食堂があった。ヴォルガスト家には7人の娘があり、クロスターシェンケに顔を出し快活に振る舞った。そして若者の注目を集めた。コーリンでは芸術を志す若者が集まり芸術論が交わされた。日本人留学生北村がおり、タウトは日本の知識を得た。そしてブルーノ・タウトは3女ヘードヴィック(Hedwig Wollgast:1879〜1968)に思いを寄せるようになり1906年、タウト26歳の時に結婚。弟のMax Taut(1884〜1967)はヘードヴィックの妹マーガレット(Margarete Wollgast)と1914年に結婚している。

タウト兄弟の甥ハンス・カイザー(Hans Kaiser)はヴォルガスト姉妹の妹と結婚し、この住宅に住んでいた。しかし第二次世界大戦で住宅は破壊され、マックスタウトがこの土地を買い取った。



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2009年07月27日

ブルーノ・タウト設計のオリヴァー通り集合住宅

ブルーノ・タウト設計のオリヴァー通り集合住宅“Wohnanlage Olivaerstrase“は、すでにご紹介したシェ−ンラカ−通りの集合住宅“Wohnanalage Schonlankerstrase”に近接して建てられています。ルディ・アルント通り(Rudi-Arndtstrase)とコンラッドブレンケレ通り(Conrad-Blenklestrase)に面して建っており120戸の住戸があります。建築主はGEHAGです。1950年に再建されたもので1990年に道路側のファッサードが修復されました。ルデイ・アルント通り(Rudi-Arndtstrase)に沿った長い敷地しかなく集合住宅の配置計画として苦慮したそうです。この集合住宅が1室半の住居の典型的な例です。1住居の幅が6.6m、奥行きが12mと広くは無い住居です。
ベルリンに良く見られる集合住宅のタイプで住戸の後ろに庭を配しています。19世紀の集合住宅として極めて近代的なものです。


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ルディ・アルント通り(Rudi-Arndtstrase)とコンラッドブレンケレ通り(Conrad-Blenklestrase)の角の外壁です。丁度1階のアジアの食品を販売する商店が入居していました。


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ルディ・アルント通り(Rudi-Arndtstrase)側の集合住宅を中庭側から撮影したものです。



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1926〜1927年にかけ建設された当時としては上級の労働者住宅であったと考えられます。
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2009年07月20日

ブルーノ・タウト設計のグレル通り集合住宅

ブルーノ・タウト設計のグレル通り集合住宅“Wohnanlage Grellstrase“は、プレンツラウアーベルク地区(Prenzlauer Berg)の東北部、環状線のエルンスト・テールマンパルク(Ernst-Thalmann-Park)駅の北200メートルくらいのところにあります。グレル通り(Grellstrase)とリーツエ通り(Rietzestrase)、ホーゼマン通り(Hosemannstrase)に囲まれた敷地に一部はコの字型、L字型、そして一部は曲線を描くような形で細長い集合住宅が広がっています。1927年から1928年にかけて建設されました。これはブルーノ・タウトとフランツ・ホフマン(Franz Hoffmann)との共同設計です。ブルーノ・タウトは1909年にベルリンで共同の設計事務所を開設し、1933年に来日するまで続いていました。152戸の住居があり、建築主はGEHAGです。1970年に補修が行われ、左官工事、塗装が行われました。2001年から2005年にかけ記念建築物保全の修復が行われました。

ベルリンに良く見られる集合住宅のタイプで住戸の後ろに庭を配しています。19世紀の集合住宅として極めて近代的なものです。


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グレル通り側に建つ“コ”の字型住宅の外壁の窓です。どの住宅も窓をうまく飾り、道行く人を楽しませています。


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集合住宅団地の敷地内に入り、“コ“の字のつなぎ部分外壁を撮影したものです。階段室窓枠は赤く、一般の窓枠は緑色に塗装されています。


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グレル通り側に建つ集合住宅の建物内に入り込んだバルコニーを撮影したものです。


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グレル通り(Grellstrase)に面する集合住宅とその中庭を撮影したものです。この集合住宅団地は最初から細長い敷地で、多くの住戸を入れるには条件が悪かったのです。ここに日照も確保しつつ、通風にも配慮して、かつ緑を確保する住宅は位置にタウトは苦慮したそうです。


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2009年07月13日

ブルーノ・タウト設計のオッサー通りの集合住宅

オッサー通りの集合住宅はブルーノ・タウトにより設計され、1927〜1928年に建設されました。オッサー通り(Ossastr.)に面して約170 mと長く建っており、オッサー通りと直交するヴァイヒゼル通り(Weichselstr.)とフルダ通り(Fuldastr.)にも面して平面的には“コ“の字の形で建設されています。ノイ・ケルン地区でもこの周辺は労働者の為の集合住宅建設地としてベルリン市住宅局が所有していた土地に建設されました。単にオッサー通りに面して170mの長い集合住宅を建設したのでは単調になるためにタウトはヴァイヒゼル通り(Weichselstr.)とフルダ通り(Fuldastr.)に集合住宅を曲げて建設し、全体にアクセントを付ける工夫をしました。住宅はどれも1室半(72 m2)、もしくは2室半(98 m2)で、そう広くはありません。

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この集合住宅のゆるいカーブを描く白い外壁です。このような緩いカーブはオンケルトムズヒュッテの集合住宅にも見られるし、ブリッツの馬蹄形住宅も同様で、ブルーノ・タウトの得意技であるようです。


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この集合住宅以外でもあるのですが、建物の隅角部にバルコニーを設置しています。これもブルーノ・タウトの得意技であります。


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この集合住宅を調査していると「この集合住宅は1928年に東ベルリン共同建設会社(Gemeinnutzige Baugesellschaft Berlin-Ost mbH)により建設され、設計者はブルーノ・タウトである」という事を記した看板が見つかりました。


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この住戸の厨房に付けられていた換気窓です。当時は厨房の排気は自然換気によっていたことが分かります。ガラス部分は一重ガラスを二枚使用した構造になっています。

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2009年07月06日

ブルーノ・タウト設計のライネ通りの集合住宅

ライネ通りの集合住宅はブルーノ・タウトにより設計され1925〜1928年にノイ・ケルン地区に建設されました。1期工事は1925〜1926年、2期工事は1927〜1928年に行われました。191戸の住宅があります。4つの道路に囲まれた矩形の土地に”ロ“の字型に建設されています。この付近の区画整理は1980年に計画され、1905年から1914年にかけて実施されました。区画整理された道路の区画に収まるようにこの集合住宅は建設された。ワイマール共和国時代の典型的な都市内勤労者用集合住宅といえます。タウトはこの集合住宅で集合住宅建設の形態と秩序を完成させたとも言われています。1951年に戦災で破壊された部分の再建が行われ、1966年に改修が行われました。この集合住宅はベルリン市内のテンペルホーフ飛行場(Flughafen Tempelhof)に隣接して建設されました。

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この集合住宅の外観です。この建物も5階建てで地下があります。当時の標準と言えます。


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この集合住宅の玄関とその上にある階段室の外観です。


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中庭に立つ子供の遊び場の使用に関する注意を記した看板ですが、ドイツ語とトルコ語で書かれています。事実このノイ・ケルン地区、並びにクロイツベルク地区はトルコ人の労働者が多く住んでいます。


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この集合住宅の中庭側から撮影したものです。ドイツの集合住宅の中庭で多くの場合芝生が植えられ、ここでもドイツ人が好む樅の木が植えられ成長しています。樅の木をドイツ語でタンネ(Tanne)と言いいす。ドイツ人の好む歌で特にクリスマスが来ると歌われるのがO, Tannebaum, O Tannebaum, wie true sind deine Blatter!というものがあります。「モミの木よ、モミの木よ、(冬にも)緑を保つお前の葉は何と誠実な事か!」という歌ですが、わが国でも「モミの木、モミの木・・・」と訳されて歌われています。

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2009年06月29日

ブルーノ・タウト設計のヴァイガンドウーファーの集合住宅

ベルリン市ノイ・ケルン地区は早くから発展しましたが、下町の情緒をかもし出しています。この地区は昔から労働者、勤労者が多く住み、ブルーノ・タウトもいくつかの住宅団地を残しています。その一つがヴァイガンドウーファーの集合住宅です。

この集合住宅は1925〜1926年に建設されました。ヴァイガンドウーファー(Weigandufer)とう道に面してまたこの道路と直交するヴィルデンブルッフ通り(Wildenbruchstrasse)に90度曲げて建設されました。平面的に見ると大工が使用する曲尺の形をしています。ウーファー(Ufer)とはドイツ語で運河を意味します。この住宅はノイ・ケルン地区を流れる運河に沿って建設されています。ベルリンにはシュプレー河(Spree)という河が流れ込み市内ではそれが細かく分かれて流れています。一部では川幅が1 kmを超える場所もあります。このような運河を使って船舶による運搬が行われ、ベルリンが早くから工業都市として発展することが出来たのです。平地を流れる河であるので、日本の河川と異なり、流れも緩やかです。

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この集合住宅の外観です。住戸数は100戸です。


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この建物は5階建てで当時の標準であったようです。にヴァイガンドウーファー(Weigandufer)という道とヴィルデンブルッフ通り(Wildenbruchstrasse)の交差点から写した写真です。


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この写真はヴァイガンドウーファー(Weigandufer)側からの外観です。築後90年になりますから人々によって十分に住まわれたという感じをかもし出しています。


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この住宅のヴァイガンドウーファ(Weigandufer)という道に面する外壁の玄関を示します。
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2009年06月22日

ブルーノ・タウト設計のアイッヒカンプの住宅

ブルーノ・タウトはベルリンのシャロッテンブルグ(Charlottenburg)地区にあるアイッヒカンプ(Eichkamp)に2戸住宅、もしくは1家族用の独立住宅を1925年から1927年の間に42戸設計し、建設しています。比較的小規模な住宅ですが、窓などに工夫を凝らし、人々の生活に潤いを与えました。

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アイッヒカンプの住宅です。チカデンヴェーク(Zikadenweg)72〜74番地にあります。


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アイッヒカンプの住宅の外壁です。1925〜1927年にかけて建設されました。


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アイッヒカンプの住宅の外装です。


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アイッヒカンプの住宅の玄関です。
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2009年06月15日

ブルーノ・タウト設計のトリエラー通りの集合住宅

旧東ベルリンのヴァイセンゼー(Weisswensee)地区にトリエラー通り(Triererstrasse)の集合住宅があります。道路に面した方は1階が紫、3階が赤、2階、4階は黄土色と華やかな色彩が施されています。夏にこの住宅に来ますと、設計者の色彩感覚を疑いたくなります。しかし北ドイツは秋が来るとどんより曇り、重たい雲が垂れ下がり、いつこの雲がどいてくれるのか、わからない生活が続きます。そのような時にこの色彩が人々の心を明るくしてくれます。


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トリエラー通りに面したファッサードです。ドイツの冬にはこれがぴたりと会います。


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トリエラー通りの集合住宅の窓です。


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トリエラー通りの住宅の窓です。


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トリエラー通りの住宅の道路と反対側から見たところです。
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2009年06月08日

ブルーノ・タウト設計のファルケンベルグの住宅

ブルーノ・タウト(1880年〜1938年)は1920年代に多くの集合住宅をベルリンに残しています。その内4件が2008年7月にユネスコの世界文化遺産に指定されました。シラーパークの団地、ブリッツの馬蹄形住宅、カール・レギーンの住宅がそうですが、1件だけ1913年から1916年にかけて建設された団地ファルケンベルクの田園都市も世界文化遺産に指定されました。
タウト33歳の時の作品です。それまでの集合住宅はねずみ色のような物が多かったのですが、思い切って彩色を施し、人々を驚かせました。田園都市の構想を発表し、都市にありながら田園生活を楽しむと言う発想、お互いに助け合って生活するなど新しい住まい方を提案しました。


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ファルケンベルクはベルリン市の東のはずれにあります。田園都市通り29番地にある住宅の玄関です(Gartenstadtweg29)。



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ファルケンベルクのアカシア通り(Akazienhof)6番地にある集合住宅です。タウトは「住宅には色彩が必要である」と言いました。


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田園都市ファルケンベルクのアカシア通り(Akazienhof)、2〜3番地にある住宅です。


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ファルケンベルク(Am Falkenberg)118番地の住宅です。
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2009年04月20日

ブルーノ・タウト設計のオンケルトムズヒュッテの集合住宅

2008年7月にベルリンに1920年代に建設された集合住宅がユネスコの世界文化遺産に指定された。その内4件はブルーノ・タウトが中心となって設計を行ったものである。この4つの住宅団地がタウトの代表作かと言うと必ずしもそうではない。高く評価されているタウト設計の住宅団地にはベルリンのツェーレンドルフ(Zehlendorf)地区のオンケルトムズヒュッテ(Waldsiedlung Onkel Toms Hütte)住宅団地がある。これは森の団地と呼ばれている。森の中に建つ集合住宅群であるが1926年から1931年の間に建設されている。タウトが青春時代を過ごし、妻を得たベルリン郊外の地コーリン(Chorin)の森林をここで再現させたと言われる。ここにはタウトの顕彰碑も建っている。ブリッツの馬蹄形集合住宅とほぼ平行して計画が進められ、タウトの最も円熟した時代の作品と言われている。


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アルゼンチン通りの集合住宅

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森の団地オンケルトムズヒュッテの集合住宅は芝生と白樺
と松が共にある。

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オンケルトムズヒュッテの団地は地下鉄の線路の北と南に広がっています。北側はオウム地区と呼ばれる非常に派手な彩色を施した団地があります。その一部を紹介します。

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これもオウム地区の集合住宅です。

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オンケルトムズヒュッテの集合住宅です。

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オンケルトムズヒュッテにあるブルーノ・タウトの顕彰碑です。
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2009年04月13日

タウトの伴侶エリカの墓

Tautの伴侶Ericaの墓はタウトとエリカの間に1918年10月24日に生まれた娘KlarissaによりBritzのKoppelwegにある墓地に建てられた(タウトの名前はメモリアルで遺骨は埋葬されていない)。


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行方が分からないとされたタウトの伴侶エリカの墓は馬蹄形住宅団地のあるブリッツのKoppelwegという道にある市営墓地にありました。


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タウトの伴侶エリカの墓はKoppelwegの墓地の一番奥まった所にありました。しかし墓石の前の樅が茂り直ぐには見つけることが出来ませんでした。この写真もドイツ人の友人に左右で引っぱって頂きやっと撮影したものです。エリカは日本から帰国し、収入も無く最後は失明し、1975年にベルリンで亡くなったそうです。


1916年タウトはErica Wittichと知り合い同棲するようになる。1933年Ericaと共に来日。Ericaはベルリンの町を形作った大建築家Karl Friedrich von Schinkelの血を引くという説がある。「日本−タウトの日記」の訳者篠田英雄先生は次のように日記の解説に述べている。
エリカ夫人は、1939年9月に、タウトの遺稿ならびに遺品とデスマスクを携えて、再び日本を訪れた。デスマスクは、高崎におけるタウトの旧居「洗心亭」のすぐ傍の少林寺達磨寺に納められたのである。この年の12月24日に、エリカ夫人と少数の知友とが達磨寺に集まり、住職広瀬大蟲を導師として一周忌の法要を営んだ。その後、日本をも含めて世界の情勢は急速に変転しまた悪化した。ドイツ人であるエリカ夫人にとって、日本はもはや住みよい地ではなくなった。・・・
たぶん46年にアメリカを経て帰国したらしいが、日本のどの知人も、その後の消息を知る事ができずにいる。であるが夫人は既に高齢の筈である。上野氏は、1958年に戦後のベルリンを訪ねたが、マクス・タウト氏ですら、エリカ夫人が東ドイツに居住しているということ以外には何も知るところがなかった。いずれにせよ、この日記と共に、日本に関するタウトの著作原稿は、その保全に忠実であったエリカ夫人のお蔭で、すべてこの国に残されることになったのである。(タウトの日記解説:篠田英雄:昭和50年6月)



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エリカの墓の近くにあった人形です。タウトの為に一生懸命尽くしたエリカもタウトの作品ブリッツの集合住宅の近くで波乱に満ちた生涯を終え静かに眠っています。全て世は事も無し


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高崎の少林山達磨寺の庵「洗心亭」で過ごしていたブルーノ・タウトと伴侶エリカです。


ブルーノ・タウトは大変な偉人であったが、日本における活動は伴侶エリカの出来すぎる手助け無しには達成できなかったはずである。特に篠田先生が記述されているようにエリカがトルコから苦労をしてタウトの遺品を日本に持ち込まなければ殆どの事が忘れ去られていたであろう。


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ブルーノ・タウトと伴侶エリカが過ごした少林寺達磨寺の洗心亭も木造建築で痛みが激しくなりました。2008年に無事改修が終わり、その年の12月24日(タウトの命日、没後70年)に竣工披露が行なわれました。
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2009年04月06日

ブルーノ・タウト設計によるブリッツ(Britz) の馬蹄形団地

ベルリンのブリッツにある集合住宅で2008年7月にユネスコの世界文化遺産に指定された。
1925年から1930年にかけて設計と工事が行われ、主にブルーノ・タウトが担当をした。住宅団地の面積は37.1 ha、緩衝帯面積73.1 ha、総面積110.2 haの大住宅団地である。1,963戸の住宅があり、その内1,556戸は集合住宅で、407戸がタウンハウスタイプである。馬蹄形の住宅が有名であるが、その馬蹄形から放射状に長方形の集合住宅も並ぶ。多くは燕尾色などに彩色されている。


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2008年7月にユネスコの世界文化遺産に指定されたブリッツの馬蹄形住宅です。建物が大きいので、地上からでは馬蹄形になっている事が分かりません。

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ブリッツの馬蹄形住宅で中庭が見渡せる場所から撮影しました。

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ブリッツの馬蹄形住宅の階段室のある部分です。タウトは彩色を施す事でアクセントを付けました。

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タウトは馬蹄形住宅から放射状に出る長方形の集合住宅も設計しました。ここでは臙脂色に彩色が施されています。

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馬蹄形住宅を中庭から眺めたところです。

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2008年7月にユネスコの世界文化遺産にしていされたブリッツの馬蹄形住宅の中庭にはタウトの顕彰碑があります。

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2009年03月09日

ブルーノ・タウトの作品「チーズカバー」

ブルーノ・タウトが表現主義の建築家と呼ばれたときの作品でヴォルプスペーデ(Worpswede)のヴァイアーベルク(Weyerberg)と呼ばれる小高い山の上に建っている。

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チーズカバー外観

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チーズカバー入り口、寒地の建築だけに風除け室がある。


この住宅は文筆家エドヴィン・ケンネマン(Edwin Könnemann(1883〜1960))がブルーノ・タウトに依頼し1926年に建設したものである。半円球の形をしているところからチーズカバー(Käseglöcke)の愛称を持つ。本来はタウトがマクデブルグで展示会に展示した物を実現したものである。


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円形住宅の中央に暖炉があります。この暖炉に寄り住宅全体に暖が採れるように工夫されています。寒地では暖房が大切でした。この暖炉は彫刻家カール・ピーニングにより設計されました。暖炉は単に暖房の機械としてではなく、重要な装飾品でもあったのです。

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チーズカバーの2階には客室が2つあります。客室と言っても作り付けの小さなシングルベッドがあるだけです。

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チーズカバーに置かれている椅子は芸術的です。

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居間ですが、内部は木造建築です。
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2009年02月23日

ブルーノ・タウト設計のカール・レギエンの住宅都市(Wohnstadt Carl Legien)その2

カール・レギエンの住宅都市はブルーノ・タウトの設計です。他のタウト設計の住宅に比べると、住宅そのものの色合いは多色使いというわけではありません。しかしやはり扉などにははっきりした彩色が施され、タウトらしい特徴が見られます。ここではいくつかの住宅の玄関扉をご紹介いたします。

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カール・レギエンの集合住宅で見つけた青色の扉です。

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カール・レギエンの住宅団地で見つけた赤い窓枠です。

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カール・レギエンの集合住宅で赤く彩色された玄関扉を見つけました。

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カール・レギエンの集合住宅で見つけた黄色の彩色を施した玄関扉です。

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2009年02月16日

ブルーノ・タウト設計のカール・レギエンの住宅都市(Wohnstadt Carl Legien)

この住宅団地も2008年7月にユネスコの世界文化遺産に指定されました。ベルリンのPrenzlauer Bergにあります。1928年から1930年にかけて建設されました。タウトの他にFranz Hillingerが設計に協力しています。住宅団地の面積は8.4 ha、総面積は33.9 ha、緩衝帯面積は25.5 haで1145戸の住宅があります。ベルリン市の内部にあり、大規模なジードルングです。高密度な集合住宅で、高層化が計られました。それでいて圧迫感を抑え、通風や採光、色彩、形態に配慮が払われました。

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カール・レギエンの住宅団地中庭

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カール・レギエンの住宅団地の出窓に特徴がある。

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カール・レギエンの住宅団地・集合住宅の隅角部に取り付けられたガラス窓に特徴がある。

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カール・レギエンの集合住宅

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カール・レギエンの集合住宅ベランダは建物内に引っ込んでいる。
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2009年02月09日

ブルーノ・タウト設計の庭園都市ファルケンベルクその4

庭園都市ファルケンベルクは第一次世界大戦以前に手がけられた「生活共同体」(Genossenschaftliche Siedung)と呼ばれた住宅団地プロジェクトの一つです。生活革命を訴え、居住において格差の無い共同生活を目指すものでした。ここには個性的な住宅が多数存在します。

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ファルケンベルクには特徴のある住宅が多いのですが、その一つです。

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ファルケンベルクの色彩豊かな住宅

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ファルケンベルクの住宅、黒と赤の配色が強烈です。窓枠の赤い彩色も。

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一見長屋風の住宅です。屋根には暖房用暖炉の煙突が付いています。ドイツでは煙突掃除夫という職業があり、黒い清掃をし、シルクハットを被って仕事をしました。朝煙突掃除夫に出会うと良い事があると
言われていました。また煙突からサンタクロースが入ってくると言うのもゲルマン民話です。

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窓にデザインを凝らしたファルケンベルクの集合住宅

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強烈な青で彩色したファルケンベルクの住宅

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窓下のデザインに凝ったファルケンベルクの住宅

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2009年02月02日

ブルーノ・タウト設計の庭園都市ファルケンベルクその3

ドイツには人名が付いた道路が多数あります。ファルケンベルクの住宅団地付近にはブルーノ・タウトに因んだブルノ・タウト道り、ブルーノ・タウト環状道路(Bruno Taut Ring)があります。私が1971年から1973年の間在籍しましたベルリン工科大学へルマン・リーチェル研究所はMrchstr.4というところにありました。これはベルリンのオリンピック競技上などを設計した建築家Marchの名前に因みます。

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ファルケンベルクは庭園都市と名づけられているだけあって今も緑が豊かである。「庭園都市ファルケンベルクは建築家ブルーノ・タウト教授の設計により1913〜1915念に建設された。」というさりげない看板があった。

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「庭園都市通り」「ブルーノ・タウトリンクは150 m先」の標識

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ファルケンベルクには「ブルーノ・タウト通り」と名づけられた道があります。

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ファルケンベルクの住宅には空き巣に対する警告か「闘猫あり」の看板を出す家もありました。

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2009年01月26日

ブルーノ・タウト設計の庭園都市ファルケンベルクその2

2008年(平成20年)7月にブルーノ・タウトがベルリンで設計した4つの住宅団地がユネスコの世界文化遺産に指定されました。タウトはドイツが第一次世界大戦で敗戦国となり労働者の住宅が大変に粗末であったことを気にかけ、1908年にマクデブルクからベルリンに出てきました。そして労働者の健康を考えた集合住宅を多数建設しました。この地域は旧東ベルリンにあり、私がベルリンに滞在した1971年から1973年当時は大変に行きにくかった場所です。ここではファルケンベルクの特徴的な住宅をご紹介いたします。

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ファルケンベルクの住宅です。

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ファルケンベルクの集合住宅です。

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ファルケンベルクの集合住宅です。庭園都市ファルケンベルクと言うだけあって庭園が付いています。

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ファルケンベルクの集合住宅です。

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ファルケンベルクの集合住宅です。

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ファルケンベルクの集合住宅は色彩豊かです。
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2009年01月19日

ブルーノ・タウト設計の庭園都市ファルケンベルク

ベルリンにある庭園都市ファルケンベルク(Falkenberg)はブルーノ・タウトの設計です。2008年7月にタウト設計の他の3つの住宅団地(ジードルング)と共にユネスコの世界文化遺産に指定されました。1912年に第1期工事が始まっていますので、他のジードルングに比べ早い時期に建設されています。住宅自体は簡素化されていますが、その分扉、窓、バルコニー、日射遮蔽のよろい戸などには派手な彩色が施されています。ここではファルケンベルクのいくつかの住宅の玄関扉をご紹介いたします。

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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ファルケンベルクのある住宅の玄関

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2009年01月04日

ダムヴェーグの総合学校実験棟“Gemeinschaftsschule am Dammweg, Vesuchspavillon”

この建物はベルリン市ノイケルン(Neukolln)のダムヴェーグ(Dammeg)26番地に建っています。所有者はベルリン市で発注者はベルリン市ノイケルン地区です。建設計画は1927年に始まりました。ワイマール共和国は教育計画にも改革を試み、教育と建築を一体化した考えを打ち出しました。学校教育改革者であったフリッツ・カルゼン博士(Dr. Fritz Karsen)とブルーノ・タウトは将来の学校のモデルとして学生数2000から2500人の総合学校(Gesamtschule)を作りました。最も進歩的な教育を考えるチームであした。労働者の居住地であるノイケルン地区のダムヴェーグにある142,700m2の広大な敷地を校地としました。学校教育の改革とは幼稚園、小学校、中学校、高等学校を一つの教育機関として統合しようとするものでした。そうすることで、幅の広い教育を提供でき、また学生、生徒には個別の対応が出来ることを考えました。校舎は円弧状にし、かつこれを連続させ、それぞれ学年別の教育が分断されないようにしました。そして、前面道路との関係も良くなるようにしました。校舎内の机や椅子も新しい教育方針に沿って作られたそうです。しかし現存する唯一のワイマール共和国の最も重要な学校計画の遺品は「実験ホール」です。この建物は1930年代に一旦学校の管理人の住宅になり、後工場、そして倉庫として使用されました。1998-1999年にベルリン工科大学建築史研究室により、当初のブルーノ・タウトが設計を行ったときと同じ状態に修復されました。正面の大きなガラスの扉と採光を良くするために設けられた、高い位置に設けられた外壁のガラス窓です。

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タンクレド通り(Tankredstr.)の集合住宅です。住棟に5本の煙突を兼ねた柱が外部についています。

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実験ホールを校庭側から見たものです。

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実験ホールを玄関とは裏の方向から見たものです。

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現在この学校はベルリン市の教育・科学研究の事務所と、カール・レギーン学校と呼ぶ職業学校になっています。この看板です。

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2008年12月08日

コリーン(Chorin)という村2

ブルーノ・タウトは1917年からエリカ・ヴィテイヒという女性と同棲し、1933年に日本にやってくる。エリカは正妻ではないが、当時の日本ではこのような倫理上良くないと考えたのかエリカをタウト夫人と書いている。

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湖の畔にここでタウト兄弟が青春時代を過ごしたという古いクロスターシェンケがあります。建物は再建されていて、かっての物ではありません。

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古いクロスターシェンケ(Alte Klosterschanke)の内部です。




エリカはタウトの仕事を十分以上に補佐し、トルコでタウト死去後もデスマスクと日本の重要人物との交換書簡を高崎の少林山達磨寺に届けるために来日している。そこでタウトの法要が営まれたが、エリカはその後、ドイツへ帰国、行方がわからないそうである。一方弟のマックスは生涯マルガレーテを伴侶として現在コリーンの修道院内の墓地に共に眠っている。

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昔Wollgast家の鍛冶屋があった所だそうです。

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歴史的な鍛冶屋との看板が今出ています。

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修道院の横にWollgast家の墓地があります。その中にMax Tautの墓が有り、妻Margarete Taut (Wollgast)と共に眠っています。ちなみに兄Bruno Tautの墓はトルコのイスタンブールにあります。

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2008年12月01日

コリーン(Chorin)という村1

コリーン(Chorin)という村はベルリン市の東北約50 kmのところにあります。ブルーノ・タウトも弟のマックス・タウトも青春時代にこのコリーンを尋ね、湖と森で英気を養いました。両兄弟ともコリーンの風景をパステル画にしています。

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コリーンの駅舎です。タウト好みの彩色が施されています。

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タウト兄弟はクロスターシェンケへ出かけ、その店の娘と結婚しますが、その店は今はありません。新しいクロスターシェンケ(Neue Kloster Schanke)という店がありました。




コリーンには中世の時代から修道院(クロスター:Kloster)がありました。17世紀30年戦争が終わった頃から廃墟になったそうですが、現在かなり修復が行われています。ここで鍛冶屋をしていた一族にヴォルガスト(Wollgast)家があり、クロスターシェンケ(Kloster Schänke)という食堂も営業したそうで、酒も飲め、ダンスも出来るというので、若者に人気があったそうです。

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修道院の近くに大きな湖があります。青年達はクロスターシェンケの娘達を誘い湖にボートをこぎ出したそうです。




タウト兄弟もここに出入りし、店にも出ていた三女のヘートヴィッヒ(Hetwig Wollgast)とブルーノ・タウトは結ばれます。後に妹のマルガレーテ(Margarete Wollgast)とマックス・タウトが結ばれます。

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修道院です。かなり修復されています。

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修道院の内部ですが、天井がまだ貼られていません。
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2008年11月24日

ブルーノ・タウト旧宅2

この住宅はドイツの歴史的建築物保護の指定は受けていますが、旧東独、ブランデンブルグ州にあります。この州都はポツダムでポツダムはお城も沢山あり、まず観光に役立つポツダムの修復に予算が行ってしまい、タウト旧宅のように個人住宅には資金が回ってこないそうです。

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タウト旧宅のある村の駅Dahlewitzです。旧東ドイツの復興はまず観光資源になる所から。公共鉄道の駅舎ですら、まだ割れたガラス窓にはベニア板が貼られたままです。

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タウト旧宅の平屋根も相当に傷んでおり、コンクリートの小片が自然に落ちてくる状態です。

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外壁も相当に傷んでいます。




かつ住人のディプナー夫人は年金生活者で、この住宅の維持に資金を使い果たし、もうお金が無いとの事でした。私にどうにかならないかと修理保全を依頼されている状態です。

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外壁下部の損傷も進んでいます。

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窓周りの損傷も進んでいます。

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バルコニー下の損傷も進んでいます。
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2008年11月17日

ブルーノ・タウト旧宅1

ブルーノ・タウトは1880年、東プロシャの首都ケーニスベルクで生まれました。建築学を学び、1921年マクデブルグ市の建築技師になりました。鉄のモニュメント、ガラスの家など表現主義の建築を発表し、有名になりました。

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Dahlewitzに残るタウト旧宅。道に面してはチャコールグレーに塗られた半円形の面が見える。

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半円形の反対側は四角で平面は円を1/4に切ったような形です。



第一次大戦でドイツが敗戦国となり、工業化により、賠償金を払おうとすると、犠牲者は都市に集まる労働者でした。労働者住宅は監獄のようであったと言われます。これではいけないと、タウトは1924年にベルリン住宅供給公社(GEHAG)の技師となり労働者に健康を配慮した住宅を設計することに励みます。そして社会主義建築家として認められます。それが為に台頭してきたナチス政権ににらまれることとなり、1933年上野伊三郎の招きにより、日本へ亡命のような形でやってきます。

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建物はドイツ文化財保護の指定を受けています。

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内部の階段はガラスブロックが奥に見え、初期の出世作「ガラスの家」を思わせます。



日本では設計の仕事が出来なかったので、建築家の休暇と称して高崎の少林山達磨寺の洗心亭にこもり「日本美の再発見」、「日本文化私観」「日本・タウトの日記」などを著します。1936年にトルコへ行くのですが、そこで1938年に客死します。タウトが自から設計し、来日するまで住んでいた住宅がベルリンの郊外ダーレビッツ(Dahlewitz)に残っています。この住宅についてタウトは「ある住宅“Einwohnhaus”」という本を著しているくらいです。タウト設計の独立住宅は少なく貴重な作品ですが、1926年から27年にかけて作られ現在相当に傷んでいます。

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これは平成20年7月17日付日本経済新聞朝刊の文化欄に紹介された写真です。ブルーノ・タウト脱出後この部屋は一旦白く塗り替えられましたが、現在の住人によりタウトが住んでいた時と同じ色に塗り替えられました。画家である住人はこの色がインスピレーションを起こさせると言います。

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1階の居間です。色使い、段があることなど、ブルーノ・タウトが唯一日本で設計した熱海に残る旧日向別邸とよく似ています。
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2008年11月10日

建築家マックス・タウト2

兄ブルーノは兵役を拒否し、暖炉の製造工場で勤務しますが、マックスは1914年から18年の間兵役に服しています。1923年にはベルリン市のクロイツベルク(Kreuzberg)地区にドイツ印刷連盟の建物を設計し、内部の彩色は兄譲りのものでした。兄ブルーノが1938年トルコのイスタンブールで死去するやトルコへ渡り、兄の仕事の後始末をします。

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ベルリン市ミッテ地区Michaelkirchplatz/ Engeldammに建つ旧労働組合連合会の建物。1927−30年に、Bruno Taut, Franz Hoffmann、 Max Tautが設計。発注者はドイツ交通連盟。1930年から労働組合連合会になった。当初の計画はBruno TautとHoffmannによって行われ、平面的にはほぼ4角形で中庭を持つ。5階建で各階のリザリト(建物前面の突出部)がある。施工実施に当たりMax Tautが設計の変更を行い隅角部に丸みを持たせた。Maxはスパンを鉄筋コンクリートに経済的な物に変更している。会議室には「団結は新しい力を創造する」というレリーフがあったが1945年に破壊されている。



1944年までベルリンのEichenkampというブルーノとマックスの住宅の作品がある場所に住んでいましたが、第2次大戦でこの住宅が焼失するや夫人の出身地であるベルリン郊外のコリーンに移住し、ここからベルリンに通います。1945年にはベルリン芸術大学の建築の教授に就任します。1967年にベルリンで亡くなり、夫人の出身地コリーンの修道院内に埋葬されました。

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労働組合の事務所建築
Berlin 市Mitte地区のWallstr.61-65, Inselstr. 6, Markisches Ufer 32-34に建ちMax Taut, Franz Hoffmann, Walter Wurzbachの設計。Wallstr.とInselstr.並びにUferstr.に囲まれた土地に建つ。RC造の典型的事務所建築といえる。外の柱間隔がそのままスパン間隔になり事務室を形成している。窓枠を始め様々な色彩が用いられている。7階にペントハウスが、建物の下を地下鉄が走る。

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旧ドイツ帝国鉱山労働者共済組合(Reichsknappschaftshaus)、Berlin市 Wilmersdorf地区Breitenbachplatz 2にある。, 1929-30年に設計され、設計者はMax Taut とFranz Hoffmannである。L字型をし、3階建。ガラスを多用し、中から外の眺めを良くした。鉄骨の上に陶磁器の茶紫の外装を施した。第二次大戦で激しく破壊されたが、再建。現在はベルリン自由大學の建物になっている。

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旧ドイツ帝国鉱山労働者共済組合(Reichsknappschaftshaus)建物の2つの建物を繋げる階段が美しく、Max Tautの得意技である。

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Berlin市Kreuzberg地区のOranienplatzに建つ消費協同組合の百貨店。1932年にMax Tautの設計により建設されたが、百貨店としては数年しか使われず、事務所に転用された。L字型をし、5階と9階建。窓が多く、貝殻石灰岩板で外装を行う。1階の柱は細い。入り口にはMax Taut Hausと書かれている。

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Berlin市の Lichtenberg地区の Noldnerplatz, Schlichtallee, Fischerstr.に建つ。Max Tautがコンペで残した作品で1927,1929-32に建設された。小・中学校、職業学校、教育と文化センターなどがある。図書館、会議室もある。Max Taut Schuleの看板もあり、Max Tautも兄Bruno Taut同様に敬愛された建築家であったことが分かる。

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校庭には"Max Taut Schule" (マックス・タウト学校)の看板もある。

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2008年11月03日

建築家マックス・タウト1

マックス・タウトはブルーノ・タウトの実弟で1884年当時の東プロシャの首都ケーニクスブルグで生まれました。長男は夭逝し、次兄のブルーノは1880年生まれですから4歳違いです。

ブルーノ・タウトはナチス政権を逃れて日本にやってきて、ユダヤ人説が流されますが、これを否定する証拠として、実弟マックスが戦前、戦中、戦後とドイツで活躍したことがあげられます。マックスも早くから建築家としての才能を現し、1906年にはミース・ファン・デル・ローエと出会い、ドレースデンの展覧会に出展した独立住宅が金賞を取ったりしています。

1912年には兄ブルーノとオランダ旅行をしています。兄とは良く仕事を共にし、その影響を強く受けます。一方兄はベルリン住宅供給公社の技師として集合住宅を沢山設計していますが、マックスはこれを避け、事務所建築、工場、学校、独立住宅を多数手がけました。1921年にはシカゴの新聞社シカゴ・トリビューン社の高層建築設計コンペに参加しています。

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Max Taut が改修を行ったグリーニッケにある狩りの館(Jagdschloss Glienicke)です。GlienickeとはポツダムとベルリンはWannseeとう湖によって隔てられていますが、その境のベルリン側の地名です。グリーニッケ橋が湖の上に架けられており、これが冷戦時の東と西の国境でした。ここで捕虜の交換も行われました。この館は最初1693年に建築家DieussartによりFriedrich III世の為に建設されました。途中フランス風のバロックが取り入れられたり、改修が行われましたが、Max Tautは1963-64年にガラスの出窓のある張り出し部を作った改装を行いました。現在は一部小学校としても使用されています。

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Max Tautは兄ブルーノ・タウトが健在であった頃は兄が得意とする住宅は避け、事務所建築や、工場、学校を得意として多数設計を行いました。ブルーノ・タウトの死後(1938年逝去)住宅を多く手がけるようになりました。これもその一つで、第二次大戦で敗戦したドイツの建築技術を一気に引き上げようとして行われたベルリン市ハンザフィアテルに建つ集合住宅です。高架電車のBellevueという駅の近くにあります。Hanseatenweg とBartingalleeの角にあり低層住宅(多くは平屋)が並ぶ中にあります。3〜4階建の建物で、隣はデンマークの建築家Kay Fisker設計の住宅です。南北軸の建物で、近くに建つEgon Eiermann, Oscar Niemayrの集合住宅と同じ軸で平行して建っています。全体の調和を考えて設計されました。

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ベルリン市クロイツベルク地域のDudenstr.10番地に建つかっての印刷業組合の建物です。1924−1926年に建設され、Max TautとFranz Hoffmannの設計です。複合建築で、道路に面する集合住宅と背後の5階建の印刷業建物からなります。2つの建物は低層の建物で繋がっています。この結果ほぼ正方形の中庭が存在し、低層建物を設けたことで住宅の日照の悪化を防ぎ、住宅からの眺望の悪化も防いでいます。
住宅は1戸あたりの居住面積は100平方メートルです。各階18戸からなっています。飾り気のない建物です。RC造の簡素さの中に芸術を持ち込んだといえます。

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ベルリン市クロイツベルク地域のDudenstr. 12-20に建っています。Max Taut 1954-1955年の設計です。4階の部分と6階の部分からなり、独立して10階の集合住宅もあります。6階部分はMax Tautが1925年に設計した旧ドイツ印刷業組合の建物に繋がります。4階のRC造の前に1階建半円形の突出した部分があり、町の図書館になっています。この部分が4、6、10階建の異なる住居群を纏める役割を果たしています。光と影の影響をうまく処理、利用しており、旧ドイツ印刷業組合の建物と形状的に似たところがあります。
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2007年06月25日

ブルーノ・タウトの設計した住宅を拝見(2007年4月)

ベルリンでブルーノ・タウトは12000戸の集合住宅を設計している。その中でも大きいのがベルリンの西郊オンケルトムズ・ヒュッテの団地、ジードルングである。2007年4月にベルリンを訪問したときにブルーノ・タウトの設計した集合住宅の中を拝見させていただいた。


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今回室内見学を行なったオンケルトムズヒュッテ、アルゼンチン大通りの集合住宅、1927年設計

これは地下鉄駅オンケルトムズ・ヒュッテのすぐ近くにある、リーマイスター通り(Riemeisterstr.)とアルゼンチン大通り(Argentinische Allee)の交差点近くに建つ集合住宅の1階にお住まいのKさん邸である。1927年設計の物件であるので、昭和2年ということになる。初対面のKさんであったが、快く案内をしていただき、まさに部屋の隅から隅まで案内してくださった。

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とても1927年設計の住宅と思えない現在の居間、このように居間を保つのもドイツ夫人の真髄か。

わが国では昭和30年代建設の住宅も建て換えが行われるというのに昭和2年建設の住宅がまるで、新築同様、どこか住宅展示場のモデルハウスの如くに維持されていた。もともとドイツ夫人は住宅の手入れ掃除が得意で、時間があると窓拭き掃除を行っているのであるが、改めて感心をしたものである。また自宅に人を呼んでパーティーを行う習慣がある。その際には部屋の隅から隅まで案内をしてくれるのがドイツ夫人の常である。

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当初カッヘルオーフェンの煙道であった場所が現在は飾り柱となり、残っている」

どの部屋も大変きれいに片付けられていて「恐れ入りました!」となるのであるが、考えてみると彼らは日本人に比べ少ない持ち物で生活が成り立っている。食器一つ取っても日本では和食器、洋食器、中華の食器さらに夏用の食器、冬の食器とやたらと多く収納に困ってしまうものである。衣装も同様で、ドイツでは四季を問わずそう変化はなく、冬は外が寒いので、厚いオーバーを引っ掛けて外出するぐらいである。

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地下室を案内されると”15名用の防空壕として適する”の朱書に改めて驚く。

さて部屋の隅々まで拝見させて頂、最後に地下の収納倉庫となった。ここでハッとしたことがある。地下室にはドイツ語で「ここは防空壕として適する」と朱書されていたのである。考えてみればこの住宅は第一次世界大戦の後に建ち、第二次世界大戦を抜け、その後も西ベルリンの周囲はソ連軍が包囲をしていたという緊張の中で生活をしていたのである。今の平和の時代には想像も出来ないことであるが、つい数年まではそういう時代であったのである。きっとこの地下室は厚いコンクリートで堅固に作られたのであろう。
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2007年04月02日

偉大な建築家ブルーノ・タウト_4

ベルリン出張のたびに、時間を見つけブルーノ・タウトの作品を見てきました。タウトは1913年に発表した「鉄のモニュメント」、1914年に発表した「ガラスの家」で表現主義の建築家として有名になりました。そして1924年4月にベルリン市住宅局の技師になるや、労働者住宅の建設に傾注します。この間技量を認められ、1930年にはシャロッテンブルグ工科大学(現ベルリン工科大学)の教授になり住居学の講座を持ちます。

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洗心亭

1932年にはモスクワで仕事を行うなど社会派建築家の色彩を強め、当時台頭してきたナチス政権に睨まれ、かねてから憧れていた日本へ1933年5月に亡命します。ドイツで名声のあった建築家であったので、日本で大学教授などの職が得られるかと期待していましたが、日本もナチス政権と結んでいたため、良い職は得られませんでした。それどころか、建築設計の仕事にも授かれず、日本滞在中に行った設計は熱海市に現存する日向別邸(1936年、延べ床面積213m2)のみであります。数奇屋と表現主義の融合が見られます。この建築も老朽化しわが畏友稲葉和也(建築史家)らにより保存運動が行われています。

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タウトの住んだ少林山達磨寺:開運の達磨で有名。タウト著「Das japansche Haus und sein Leben(日本の住宅と生活:1936年)」にもこの写真とほぼ同じ達磨が紹介されています。

日本亡命後初めは仙台で工芸の指導を行いますが、高崎市の実業家井上房一郎氏の知遇を得て、群馬県工業試験場、高崎分場の嘱託となります。そして同伴者エリカと共に高崎市少林山達磨寺の境内にある洗心亭で昭和9年(1934年)9月8日から離日の昭和11年10月までの2年3ケ月をここで過ごしました。

先日洗心亭を訪問しました。タウトがベルリンで住宅に困窮する労働者のために建設をした住宅より、余程狭い6畳、4畳半、二間のこじんまりした木造平屋の建物で、少林山達磨寺の東隅に建っていました。タウトは建築設計の活動が出来ないと知るや、ここ洗心亭を拠点とし、日本文化の研究を行い、「日本文化私観」「日本美の再発見」「日本住宅と生活」など著書を残しました。そして桂離宮、伊勢神宮、飛騨の合掌造りを世界に紹介しました。

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「われ日本文化を愛す」ブルーノ・タウト筆による石碑:洗心亭の近く

逆境に打ち勝ち、表現主義の建築家から社会派建築家そして日本文化の再発見へと転進をはかり、それぞれの境遇で全力投球を行ったタウトは尊敬すべき人物であります。洗心亭のそばに「われ日本文化を愛す」という自筆の石碑が建っています。

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筆者と石碑
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2007年03月26日

偉大な建築家ブルーノ・タウト_3

そもそも第一次世界大戦で敗戦した後のドイツ経済は散々なものでありました。戦勝国から膨大な賠償金を突きつけられ、労働者は働けど働けど常に貧乏のどん底にいました。常識を超えたインフレーションに財閥は富を得たものの、労働者階級の生活はどうにもならないものがありました。このような背景があり、ナチスが国民の支持を得て台頭し、再びドイツを破局に追いやるのであります。
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図1 チレによるベルリンの貧乏長屋のスケッチ:「お母さん、フリッツのおしめがびしょ濡れだよ!」母親は「陽の当たる所においときな!」と答えている。

当時のベルリン在住の労働者階級をスケッチに残した画家にハインリッヒ・チレ(Heirich Zille:1858年-1929年)がいます。チレは常に労働者の側に立ってスケッチを行いました。このスケッチを見ると当時の労働者のベルリンにおける生活が理解できます。わが国においても少子化が問題になっていますが、ドイツの方が早い時期に少子化時代に入っていったのです。現在のベルリンは極めて子供の数が少ないのですが、ブルーノ・タウトがそしてハインリッヒ・チレが活躍した時代の労働者階級は極めて子沢山でありました。子供が保険代わりであったのか、当時の幼児の死亡率が高く多く子供を生まないと子供に将来を託せなかったのか?

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図2 チレのスケッチ:「あんたの鼠、どうして死んだの?」「おれんちとても湿ってんだ」鼠が死ぬほどの住環境の悪さが想像されます


図 1は赤ん坊のお守りを頼まれた女の子が「お母さん、フリッツのおしめがびしょ濡れだよ!」と叫んでいます。窓から顔を出した母親は「日の当たる所に置いときな!」と答えています。図 2は鼠の死骸を玩具にしている男の子に女の子が聞いています「どうしてあんたの鼠は死んだの?」「おれんちとても湿っているんだ」当事の住宅の劣悪な室内環境が想像されます。図3は「最貧乏人の引越し」という題です。失職し病を得た男が家賃の滞納からか家を追い出されたのでしょう。でも子供の顔には笑顔が見られます。


親の顔は貧乏に耐えかねた表情ですが、子供の顔はどれも明るく笑顔には将来の希望を感じる救いがあります。これがドイツ人の伝統精神かとも考えられます。ドイツの神様には「神々の黄昏」でご存知のように滅亡があります。しかしその滅亡からまた這い上がってきます。その力強さには感心します。

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図3 チレのスケッチ:最貧乏人の引っ越し

第一次世界大戦の敗北、そして復興、第二次世界大戦での敗北、そして脅威の復興。ブルーノ・タウトが活躍した時代は第一次世界大戦での敗北からの復興期でした。労働者に健康的な住宅を供給する事が氏の使命であったのでしょう。奇跡の経済復興をなしとげたドイツは豪華な住宅も多くなっています。タウトの作品はその中に埋没し、必ずしも存在感がありませんがこの住宅が建てられた1920年代という時代を考えるとタウトの努力に敬意を払わざるを得ません。
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2007年03月19日

偉大な建築家ブルーノ・タウト_2

ブルーノ・タウトがベルリンの西郊オンケル・トムズ・ヒュッテ(Onkel Toms Hütte)に造った森の団地ヴァルドジードルング・オンケル・トムズ・ヒュッテ(Waldsiedlung Onkel Toms Hütte)も規模が大きく1926年から1931年の間に完成しています。1952戸ありますが、ここには486戸の独立住宅もしくは2軒の家族を1棟とした住宅も含まれています。

森の団地オンケルトムズヒュッテの集合住宅

リューデスハイムプラッツ(Rüdesheimerplatz:1912年)、ジードルング・アイヒカンプ(Siedlung Eichkamp:1925年-1927年)、トリア通りの住宅(Wohnanlage Trier Straße:1925年-1926年)、ヴァインガンドウーファーの住宅(Wohnanlage Weingandufer:1925年-1926年)、シェラー公園の住宅(Siedlung Schlerpark:1924年-1930年)、フライエ・ショッレ・トレビンの住宅団地トレッビンのフライエ・ショッレ(Siedlung Freie Scholle in Trebbin:1924年-1926年)、ガルテンシュタットの住宅(Gartenstadt Falkenberg:1913年-1916年)などの現存している団地であります。


森の団地オンケルトムズヒュッテの集合住宅

「ブルーノ・タウトは住宅をたくさん造ったが住宅とは同じ事の繰り返しで、建築家としては大したことはない」という評論家もいますが、オンケルトムズヒュッテの団地にも大きな顕彰碑が建っています。リッツの馬蹄形住宅の場合もそうでしたが、住人に顕彰碑を建ててもらった建築家は他にはいないのでないでしょうか?住宅が疲弊してしまった第一次世界大戦の後に労働者住宅の復興を一生懸命に行ったブルーノ・タウトは大変な偉人でした。しかもマークドブルグ時代は印象派の建築家として売り出し、ベルリンの住宅局に移るや、社会主義派の建築家に転身、日本に移ると設計はほとんど行わず、「日本美の再発見」など桂離宮をはじめ日本文化を世界に紹介する文筆業に徹するなど自分の置かれた境遇で精一杯の仕事をした方といえるでしょう。


オンケルトムズヒュッテにあるブルーノ・タウトの顕彰碑(1933年に日本に渡ったと記されています)
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2007年03月12日

偉大な建築家ブルーノ・タウト_1

建築家ブルーノ・タウト(1880年-1938年)は1913年ライプチヒ(Leipzig)の国際建築博覧会に「鉄の記念塔」を出品、さらに1914年ドイツ工作連盟展に「ガラスの家」を発表し一躍表現主義の建築家として名声を得ました。
1914年第一次世界大戦の勃発により建築家活動が不可能になり、1920年にはマグデブルグ市(Magdeburg)の土木建築課長になり、戦後の復興に努めました。当時から建物に着色することに傾注しました。1924年44歳の時にベルリンの住宅供給公社ゲハーク(GEHAG)の主任建築家に就任し、当時ベルリンに地方から職を求めて人口の大量流入があったのに対応して労働者の住宅団地造りに努力しました。


「この地域の集合住宅はベルリン市住宅局GEHAGにより建設された」とあります。

ちなみに「近代建築の曙」と言われるペーター・ベーレンス(Peter Behrens:1868年-1940年)によるAEGタービン工場は1909年に建設されました。第一次大戦後大都会には大工場が建ち職場があったので、地方から労働者が流入しました。当時の工場は人海戦術に頼るものですから多くの労働者を必要としました。


ペーターベ−レンス設計によるAEGタービン工場(1909年竣工):ベルリン市モアビット

タウトは1933年までに12,000戸の勤労者住宅を建設しています。氏はこれをジードルング(Siedlung:団地)と呼んでいます。太陽を取り込み、ヴィーゼ(Wiese)と呼ぶ芝生のある庭を設け、当時から自動車の普及を考慮し、駐車場を設けるなどの配慮をしています。団地であるだけに同じ住居を繰り返して建設している例が多いのです。1925年にベルリンの南部のブリッツ(Britz)に平面的に見ると馬蹄形に見える団地を造っています。馬蹄をドイツ語でフーフアイゼン(Hufeisen)と呼びますが、フーフアイゼンジードルング・ブリッツ(Hufeisensiedlung Britz)として有名です。完成は1930年で1963戸です。


「ベルリン市リッツの馬蹄形住宅」空から撮影しないと馬蹄形であることは分からない」


ブルーノ・タウトのリッツの住宅団地に建てられた顕彰碑
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